斎藤道三 明智光秀 関係。 斎藤利三ってどんな武将?明智光秀や長宗我部元親との関係は?

【麒麟がくる】斎藤家の人物相関図 土岐家との関係まとめ 義龍、孫四郎、喜平次は誰の子?

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明智光秀の重臣斎藤利三!斎藤道三や春日局との関係とは? 斎藤利三と斎藤道三は親戚なのか? 斎藤道三 結論から言いますと、 この2人は親戚ではないようです。 斎藤道三は初めは、「松波庄五郎」(諸説あり)と名乗っていたとも言われ、美濃の斉藤氏とは 全く血縁関係がありません。 斎藤利三 諸説あり家系ははっきりしていないようですが、 斎藤利三のほうが本来の美濃の斎藤氏の一族です。 明智光秀に仕える前は、美濃三人衆の1人 「稲葉一鉄(良通)」に仕えていました。 明智光秀の重臣には、斎藤利三のほかに、「明智秀満」「明智光忠」「藤田行政(伝五)」「三沢秀次」という人物たちがいたと言われています。 利三以外の4人は、「明智姓」を授けられています。 利三だけが明智姓を授かっていないのは、美濃の名族の「斎藤姓」に価値があったから、と考えられています。 本来の斎藤氏は斎藤利三で、斎藤道三はあくまで名前だけを名乗っていたようで、2人は親戚関係はないようです。 斎藤利三と春日局の関係 斎藤利三は春日局の父親です。 春日局は 本名「斎藤福(さいとうふく)」という名前でした。 春日局とは、 徳川幕府三代将軍・徳川家光の乳母として仕えます。 江戸城大奥の礎を築いた人物として有名です。 家光からの信頼も厚く、 幕府の老中たちをも上回る権力を握っていたと言われています。 すごいですね。 確かに強い女性のイメージがあります。 春日の局は、1579年生まれです。 本能寺の変が起こったのが、1582年ですので、本能寺の変の時は、 わずか3歳くらいです。 3歳だと本能寺の変も理解できないでしょうし、父親の記憶自体がそんなになかったのかもしれません。 本能寺の変後は、母方の実家の稲葉家に預けられます。 謀反人の娘として、肩身の狭い想いをしていたのではないかと思います。 物心ついた頃から、あまり記憶のない父親の存在に苦しんでいたのかもしれないなと思いました。 本能寺の変がなければ、斎藤利三の娘として平凡な人生を過ごし、家光の乳母になることもなかったのかもしれません。 この逆境が、春日局を強い女性にし、ハングリー精神を育てたのではないかと思いました。 「謀反人の娘では終わらない」そんな気持ちだったのかもしれません。 こういった気持ちの強さや想いが、春日局を出世させた原動力だったのかもしれません。 後年、出世を遂げた春日局のおかげで、 春日局の実兄・斎藤利宗が5万石で家光に取り立てられています。 苦労をかけることになってしまった子どもたちの後年の活躍は、斎藤利三にとって嬉しかったに違いありません。 さいごに 関係があると思ってしまいがちな斎藤道三と、娘の春日局との関係性についてでした。 斎藤道三は、出世に合わせて名前を変えていたので、斎藤利三とは親戚関係ではないようです。 春日局は有名な歴史上の人物ですが、その父親は斎藤利三です。 春日局を春日局たらしめたのは、父・斎藤利三の影響があったからかもしれないなと思いました。 本日はここまで。 最後までお読みいただき、ありがとうございました!.

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マムシの斎藤道三は、織田信長と明智光秀の親戚だった

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この巻の主な内容• 明智家は本当は道三と義龍のどちらに味方したのか?!• 幼少期から光秀に一目置いていた斎藤道三• 斎藤義龍の父親は斎藤道三と土岐頼芸のどっちだったのか?!• 道三は小見の方を娶った後に明智城を攻めたのか!?• 明智城を守る明智光安の苦悩 斎藤道三と斎藤義龍父子の仲は、最終的には長良川で戦火を交えるほど険悪なものへとなっていく。 この以降、明智家は斎藤道三に味方していたものと思われている。 だが反対に、明智家が土岐家を追放に追いやった道三に味方するはずはない、という見方をしている史家もいる。 だが正確な資料が残されていない上では、明智家が実際にはどちらの味方をしたのかを断言することはできない。 明智家は本当は道三と義龍のどちらに味方したのか?! 『明智軍記』を参考にするならば、どうやら明智光安(光秀の叔父)が城主を務める明智城は道三側に付いていたようだ。 ただし『明智軍記』はから100年以上経ったのちに書かれたものであるため、情報が正確ではない記述も多々ある。 そのためこれを信頼し得る情報だとは言い切れないわけだが、しかし今回は『明智軍記』の記述も参考にしていきたい。 ここで明智家が斎藤道三に味方するはずがないという論理も合わせて見ておくと、斎藤道三は光秀が再興を夢見たを美濃から追いやった人物だった。 その人物に味方するなど考えられない、という論理であるわけだが、筆者は個人的にはそうは思わない。 戦国時代は力を持つ者こそが正義だった。 つまり力がなければ、力を持つものに従うしかない。 さらに言えば斎藤道三の正室である小見の方は、光秀の叔母だったとされている。 となれば、血縁者の側に味方するのは自然であったとも言える。 光秀は家を何よりも大切に考えていた人物だ。 それならば明智家の血縁者である小見の方を正室に迎えている道三に味方する方が自然に見え、『明智軍記』に書かれていることにも違和感を覚えることはない。 幼少期から光秀に一目置いていた斎藤道三 長良川の戦いが起こったこの頃、明智光秀はまだまだ土岐家の再興を現実的に考えられるような状況ではなかった。 明智家は武家とは言え最下層とも言える家柄で、武家というよりは土豪に近い水準にまで成り下がっていた。 このような状況では土岐家のことまで心配することなどとてもできなかったはずだ。 そもそも斎藤道三は明智光秀には幼少の頃から一目置いており、彦太郎(光秀の幼名)に対し「万人の将となる人相がある」と言ったとも記録されている。 このような関係性があったことからも、道三と義龍が戦った際、明智家が道三に味方したと考えることに不自然さはないようにも思える。 斎藤義龍の父親は斎藤道三と土岐頼芸のどっちだったのか?! 斎藤義龍は長良川で父道三を討った後に明智城を攻め落とした。 この戦いで明智光安が討ち死にし、光秀ら明智一族は越前へと亡命するしかなくなってしまった。 ではなぜその亡命先が越前だったのか?明智光秀の父明智玄播頭(げんばのかみ)こと明智光隆の妻は、若狭の武田義統の妹だった。 そしてこの武田家は越前朝倉家に従属していた。 恐らくはこの武田家を通じ、当時は非常に裕福だった越前に仕官を求めたのではないだろうか。 ちなみに斎藤義龍には土岐頼芸の子であったという説もあるが、斎藤道三の子であったことが記された書状なども残されており、その信憑性は低いようだ。 仮に義龍が本当に頼芸の子だったならば、光秀が義龍に味方することが自然にも思えるが、しかしそうしなかったということは、やはり義龍は道三の子だったのではないだろうか。 義龍は父道三を討った後、中国で同じようにやむなく父親を殺害した人物から名を取り范可(はんか)と名乗るようになった。 また、父親殺しの汚名を避けるためか道三を討つ際は一色を名乗っていたようだ。 これらのことを踏まえるならば、もし義龍が本当に頼芸の子で、道三の子ではないのだとすれば、范可という名も一色という名も名乗る必要はなかったはずだ。 道三は小見の方を娶った後に明智城を攻めたのか!? このように総合的に考えていくと、斎藤義龍の父親はやはり斎藤道三で、義龍は弟たちに寵愛を示していた道三によって廃嫡される可能性があったために、土岐氏を美濃から追放した極悪人を討伐するという名目によって長良川の戦いへと発展していったと考えられる。 そしてかつての主君に忠誠を誓っていた安藤守就、稲葉一鉄、氏家卜全の美濃三人衆は道三に対し良い印象を持ってはおらず、長良川ではこの美濃最大の有力者たち3人が義龍側に付くことにより、道三はあっけない最期を迎えることになってしまう。 そして光秀の叔母である小見の方が道三の正室だった明智家としては、その小見の方を見捨てることなどできず、感情はどうあれ道三に味方するしかなかったのではないだろうか。 ちなみに小見の方は天文元年(1532年)に道三(当時の名は長井規秀)に嫁いでいる。 だが『細川家記』によれば、光秀の父である玄播頭は土岐家が道三に敗れた戦で道三に明智城を攻められ討ち死にしているらしいのだが、信憑性に関しては確かとは言えないらしい。 確かに明智家から小見の方を娶り、その後で明智城を攻め、なお小見の方を正室にし続けたとなると、やや辻褄が合わなくなる。 となると光秀の父はもしかしたら、土岐家と斎藤道三による抗争とは無関係の戦で戦死したのではないだろうか。 だとすれば辻褄も合う。 明智城を守る明智光安の苦悩 こうして考えていくと、やはり小見の方が道三に輿入れした天文元年以降、明智家は道三側とは一貫して良好な関係を維持していたのではないだろうか。 そう考えなければ、圧倒的な兵力差がある中で明智家が義龍側ではなく、あえて道三側に味方した理由も、義龍が明智家を明智城から追いやった理由も説明がつかなくなる。 確かに斎藤道三はかつての主君である土岐家を美濃から追放した人物だ。 しかし世は戦乱だったとしても、明智城を守る光秀の叔父光安としては、妹である小見の方を見捨てることなどできなかったのだろう。 そう考えるともしかしたら長良川の戦い以降、明智家は明らかに道三に味方したわけではなく、立場を鮮明にせず自らに味方しなかったために業を煮やした義龍によって明智城を攻められたのかもしれない。 だが今となってはその真実を知るすべはない。

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明智光秀は、一体誰の家臣だったの?

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Table of Contents• 明智光秀は斎藤道三の家臣 まず、ドラマでは本木雅弘さんが演じる斎藤道三(利政)と明智光秀の関係ですが、 通常は、主従関係にあったと考えられています。 守護代として美濃の国の実験を握る道三に、光秀ら明智家の人たちが仕えていたのです。 もっとも、明智光秀の前半生は謎に包まれているので、本当のところは不明ではあります。 例えば、斎藤道三とその息子・斎藤義龍 高政 が内乱で争った際には、明智家はどちらにもつかなかったので、 道三とそれほど強いつながりではなかった可能性もあります。 もっともそれに関しては、主家の内部での争いに対して、どちらに味方するか決められなかったというのが理由かもしれませんが。 明智光秀と帰蝶はいとこ同士? 一方、こんな説もあります。 斎藤道三の娘である帰蝶(濃姫)と明智光秀は、血縁があったというものです。 この説によると、二人はいとこだったということになります。 光秀の父・光綱の妹が道三の妻という説 明智家の家系図は、色々なものが伝わっていて、父親名前さえもはっきりとわかっていません。 色々とある家系図の一つに、「明智氏一族宮城家相伝系図書」があります。 それによると、明智光秀の祖父は光継、父は光綱という名です。 そして、光継の娘が、「斎藤道三室」となっています。 「室」というのは、奥さんのことです。 光継の娘が帰蝶の実の母親だとすると、光秀と帰蝶はいとこだということになります。 ただし、戦国時代は、奥さんが複数いたので、光継の娘が道三室だからといって必ずしても光秀と帰蝶が血縁にあるとはいい切れませんが。 ここでの情報は下記の書籍からのものです。 小和田哲男 著「ときハ今あめが下しる五月哉 明智光秀・秀満」ミネルヴァ書房 光継の妹が道三の妻「小見の方」という説 今のは家系図を根拠にした説でしたが、少し違う説もあります。 それによれば、斎藤道三は、明智十兵衛光継の妹を妻にしました。 その名を「小見の方」といい、濃姫(帰蝶)の実の母親であるとされています。 先ほどの家系図と同じで光継が光秀の祖父だとすると、 帰蝶が叔母ということになりますね。 ただし、年齢的には光秀の方が上と思われますが。 この場合は少しややこしい関係ですが、どちらにしても親戚同士であることには変わりありませんね。 なお、この説に関しては、次の書籍を参照しました。 横山住雄 著「斎藤道三と義龍・龍興 戦国美濃の下克上」 戎光祥出版 まとめ 斎藤道三・帰蝶(濃姫)親子と、明智十兵衛光秀との関係について、 簡単に説明しました。 斎藤道三と光秀は主従関係• 帰蝶と光秀はいとこまたは叔母と甥 とはいえ、斎藤道三と光秀は実は敵同士だったのではないか、という明智憲三郎氏の説もありますし、 明智家や帰蝶についても多くを語る歴史的な史料自体が少ないので、ベールに覆われている感がありますね。

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