柿本 人麻呂 万葉集。 柿本人麻呂の儀礼的挽歌:万葉集を読む

柿本人麻呂|百人一首にも選ばれた歌人,万葉集

柿本 人麻呂 万葉集

柿本人麻呂像(奈良県、阿騎野・人麻呂公園) 出自・系譜 [ ] 柿本氏は、後裔を称するの庶流に当たる。 人麻呂の出自については、父を、兄を柿本猨(佐留)とする後世の文献 がある。 また、同文献では人麻呂の子に(母は依羅衣屋娘子)を挙げており、人麻呂以降の子孫は美乃として土着し、以降はを称して石見となったされる。 いずれにしても生前や死没直後の史料には出自・官途について記載がなく、確実なことは不明である。 経歴 [ ] 彼の経歴は『』等の史書にも記載がないことから定かではなく、『』の詠歌とそれに附随する題詞・左注などが唯一の資料である。 一般には9年()には出仕していたとみられ 、天武朝から歌人としての活動を始め、に花開いたとみられる。 ただし、に仕えた宮女の死を悼む挽歌 を詠んでいることから、近江朝にも出仕していたとする見解もある。 、によってにとして仕えたとされ、この見解は支持されることも多いが、決定的な根拠はない。 複数の皇子・皇女(、、など)に歌を奉っているので、特定の皇子に仕えていたのではないとも思われる。 近時は宮廷歌人であったと目されることが多い が、宮廷歌人という職掌が持統朝にはなく、結局は不明である。 ただし、確実に年代の判明している人麻呂の歌はの即位からその崩御にほぼ重なっており、このの存在が人麻呂の活動の原動力であったとみるのは不当ではないと思われる。 の秘伝化や人麻呂に対する尊崇・神格化が進んだ平安後期から中世、近世にかけては、『人丸秘密抄』のように持統天皇の愛人であったと記す書籍や、山部赤人と同一人物とする論も現れるが、創作や想像による俗説・伝承である。 『万葉集』巻2にで死人を嘆く歌 が載り、また石見国の鴨山における歌と、彼の死を哀悼する が残されているため、官人となって各地を転々とし最後に石見国で亡くなったとみられることも多い。 この辞世歌については、人麻呂が自身の死を演じた歌謡劇であるとの理解 や、後人の仮託であるとの見解も有力である。 また、4年()に薨去したへの挽歌が残されていることからみて、草壁皇子の薨去後も都にとどまっていたことは間違いない。 時代の後半や、遷都後の確実な作品が残らないことから、平城京遷都前には死去したものと思われる。 歌風 [ ] 柿本人麻呂(『三十六歌仙額』) 彼は『万葉集』第一の歌人といわれ、19首・75首が掲載されている。 その歌風は、、などを駆使して格調高い歌風である。 また、「敷島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ」というに関する歌も詠んでいる。 長歌では複雑で多様なを用い、長歌の完成者とまで呼ばれるほどであった。 また短歌では140種あまりの枕詞を使ったが、そのうち半数は人麻呂以前には見られないものである点が彼の独創性を表している。 人麻呂の歌は、讃歌と挽歌、そして恋歌に特徴がある。 賛歌・挽歌については、「大君は 神にしませば」「神ながら 神さびせすと」「高照らす 日の皇子」のような天皇即神の表現などをもって高らかに賛美、事績を表現する。 このの表現については、の歌謡などにもわずかながら例がないわけではないが、人麻呂の作に圧倒的に多い。 また人麻呂以降には急速に衰えていく表現で、天武朝から持統朝という制定期におけるエネルギーの生み出した、時代に規制される表現であると言える。 恋歌に関しては、複数の女性への長歌を残しており、かつては多くの妻妾を抱えていたものと思われていた(などによる見解)。 近時は恋物語を詠んだもので、人麻呂の実体験を歌にしたものではないとの理解が大勢である。 ただし、人麻呂の恋歌的表現は共寝をはじめ性的な表現が少なくなく、が人麻呂は夫婦生活というものを重視した人であるとの旨を述べている(『万葉集評釈』)のは、歌の内容が事実・虚構であることの有無を別にして、人麻呂の表現のありかたをとらえたものである。 次の歌は枕詞、序詞を巧みに駆使しており、にも載せられている。 ただし、これに類似する歌は『万葉集』巻11・2802の異伝歌であり、人麻呂作との明証はない。 『』にも採られているので、平安以降の人麻呂の多くの歌がそうであるように、人麻呂に擬せられた歌であろう。 足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾之 長永夜乎 一鴨將宿 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む 訳 夜になると谷を隔てて独り寂しく寝るという山鳥の長く垂れた尾のように、長い長いこの夜を、私は独り寂しく寝るのだろう。 また、『』(7首)以下のに248首が入集している。 代表歌 [ ]• 天離(あまざか)る 鄙(ひな)の長道(ながぢ)を 恋ひ来れば 明石の門(と)より 大和島見ゆ• 東(ひむがし)の 野にかげろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ• ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉(もみぢば)の 過ぎにし君が 形見とぞ来し• 近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ また、には「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬(いほり)せるかも」というを称えた歌が採られている。 で柿本人麻呂は6番で、 あしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が獄に雲立ち渡る (出典:万葉集巻七、選者:齋藤恭一 元埼玉県高校教諭)) 人麻呂の謎 [ ] 柿本人麻呂(『前賢故実』) 官位について [ ] 同時代の各種史書上に人麻呂に関する記載がなく 、その生涯については謎とされていた。 古くは『』の真名序では以上を示すを付して「柿本大夫」と記され、仮名序にである「おほきみつのくらゐ」 と書かれている。 また、讃歌や皇子・皇女の挽歌を歌うという仕事の内容や重要性からみても、高官であったと受け取られていた。 江戸時代、やらが史料に基づき、以下の理由から人麻呂は以下の下級官吏で生涯を終えたと唱えた。 以降、現在に至るまで歴史学上の通説となっている。 五位以上の身分の者の事跡については、に記載されるはずであるが、人麻呂の名は正史に見られない。 死去に関して律令には、以上は 薨、四位と五位は 卒、六位以下は 死と表記することとなっていた。 『万葉集』の人麻呂の死去に関する歌の詞書には「死」と記されている。 梅原猛による異説 [ ] 「人麻呂は下級官吏として生涯を送り、湯抱鴨山で没した」との従来説に対して、梅原猛は『』において大胆な論考を行い、人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれ、鴨島沖でさせられたとの「人麻呂流人刑死説」を唱え、話題となった。 また、梅原は人麻呂と、伝説的な歌人・が同一人物であった可能性を指摘した。 しかし、において受け入れられるに至ってはいない。 古代の律に梅原が想定するような水死刑は存在していないこと、また梅原が言うように人麻呂が高官であったのなら、それが『』などに何一つ記されていない点などに問題があるからである。 なお、この梅原説を基にして、が著した作が『猿丸幻視行』である。 『続日本紀』の元年()の項に(かきのもと の さる)の死亡記事がある。 この人物こそが、政争に巻き込まれての怒りを買い、のように変名させられた 人麻呂ではないかと梅原らは唱えた。 しかし当時、(のち宇合に改名)、をはじめ、名に・など語を含んだ貴人が幾人もおり、「サル」という名前が蔑称であるとは言えないという指摘もある。 柿本猨と人麻呂の関係については、ほぼ同時代を生きた同族という以上のことは明らかでない。 旧跡 [ ] 柿本人麻呂(画) 終焉の地 [ ] その終焉の地も定かではない。 有力な説とされているのが、現在の(旧・石見国)である。 地元では人麻呂の終焉の地としては既成事実としてとらえ、としてその偉業を称えている。 しかし人麻呂が没したとされる場所は、益田市沖合にあったとされる、である。 「あった」とされるのは、にはその鴨島が存在していないからである。 そのため、後世から 鴨島伝説として伝えられた。 鴨島があったとされる場所は、に()とがあり、水没したといわれる。 この伝承と人麻呂の死地との関係性はいずれも伝承の中にあり、県内諸処の説も複雑に絡み合っているため、いわゆるの域を出るものではない。 その他にも、石見に帰る際、の港より船を出したが、近くの仏島で座礁し亡くなったという伝承がある。 この島は現在の亀島と言われる小島であるという説や、河砂の堆積により消滅し安来工場の敷地内にあるとされる説があり、正確な位置は不明になっている。 また他にも同県にある鴨山の地というの説があり、益田説を支持したの著作(前述)で反論の的になっている。 神社 [ ]• 「石州益田家系図」。 「石見周布系図」 では、猨の子に人万呂(人麿)を記しているが、疑問であるとする。 ・などによる。 伊藤博による。 ただし人麻呂が石見国で死んだというのが虚構だとするのならば、なぜ人麻呂が石見国に結び付けられたのか(または人麻呂自身がなぜ石見国について取り上げたのか)、その理由について説得力のある説明は未だない。 後世の資料であるが、「石州益田家系図」では・石見掾とする。 ただし『古今和歌集』の古い伝本の多くはこの箇所を「おほきみ みつのくらゐ」としており、「おほきみつのくらゐ」としているのはが書写校訂した系統のに限られている。 しかしでは、「おほきみ みつのくらゐ」とは何なのかこれもまた不明である。 『万葉集』巻第三にはの辞世とされる歌があるが(416番)、その詞書には「大津皇子の死(ころ)されし時に(以下略)」とある。 死の直前には身分に関わりなく「死」の字を使い、その人物の死亡が間違いない時点で「薨」や「卒」を使ったと見られる。 人麻呂の場合もその詞書に「死に臨みし時に」とあり、この「死」の字のことをもって人麻呂が六位以下であったかどうかは判断できない。 での怒りを買い、一時「別部穢麻呂」(わけべのきたなまろ)と改名された。 出典 [ ]• 日光山常行三昧大過去帳• 『万葉集』巻10・2033左注• 『万葉集』巻2・217-219• , pp. 1-18. 『万葉集』巻2・220-222• 『万葉集』巻2・223-227• 『勅撰作者部類』• 歴史館/平成13年度・春の特別企画展「柿本人麻呂とその時代」解説(2018年6月29日閲覧) 参考文献 [ ]• 『水底の歌 柿本人麿論』 〈新潮文庫 上下〉、1983年2月。 梅原猛 『古代幻視』 〈梅原猛著作集 5〉、2001年2月。 『姓氏家系大辞典』 第1巻、、監修 姓氏家系大辞典刊行会、1934年、1423-1424頁。 国立国会図書館デジタルコレクション。 岡部忠夫編著『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年8月。 復刻 岡部忠夫編著『萩藩諸家系譜』マツノ書店、1999年1月、復刻版。 『柿本人麻呂論』 〈岩波現代文庫〉、2006年9月。 編 『古今和歌集綜覧』(改訂版) 書芸文化新社、1989年6月。 『柿本人麻呂いろは歌の謎』 〈知的生きかた文庫〉、1990年10月。 蔵書「石州益田家系図」『』上。 『古代氏族系譜集成』 古代氏族研究会、1986年4月。 坂口昌弘『ヴァーサス日本文化精神史』文學の森、2016年 - 「柿本人麻呂 VS 大伴家持」 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 ウィキクォートに に関する引用句集があります。 - 松崎の碑() 外部リンク [ ]• - 研究者サイト.

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柿本人麻呂の儀礼的挽歌(万葉集を読む) (壺 齋 閑 話)

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天飛ぶや 軽の路は 吾妹子が 里にしあれば ねもころに 見まく欲しけど 止まず行かば (柿本人麻呂) 万葉集入門 日本最古の和歌集「万葉集」の解説サイトです。 分かりやすい口語訳の解説に歌枕や歌碑などの写真なども添えて、初心者の方はもちろん多くの万葉集愛好家の方に楽しんでいただきたく思います。 梓弓の音を聞くように知らせを聞いて〔一(ある)は云はく、知らせのみ聞いて〕、言う術もどうする術もなく、知らせだけを聞いてじっとしていられずに、僕の恋する千分の一でも慰められるだろうと妻がいつも出て見ていた軽の市に僕も立って聞いてみると、美しい襷をかけるような畝傍の山に鳴く鳥の声も聞こえず、玉鉾の道を行く人も一人として妻に似た人は行かないので、しかたなく妻の名を呼んで魂よ帰っておいでと袖を振ったことです〔或る本に「妻の名を聞いているだけでは堪えられないので」という句あり〕。 ----------------------------------------------- この歌は、柿本朝臣人麿(かきのもとのあそみひとまろ)の軽(かる)の地にいた妻が亡くなった際に、人麿(人麻呂)が哀しんで詠んだ挽歌です。 この長歌と、長歌に付けられた反歌が二首の非常に長い歌となっていますが、それだけに人麿がどれほどこの軽の妻の死を哀しんだことがうかがえますね。 題詞には「泣血(いさ)ち」と、血の涙を流して哀しんだともありますが、けっして大げさな表現ではなかったように感じられます。 「軽(かる)」というのは現在の奈良県にある橿原神宮駅の東、剣池の南西に「法輪寺(軽寺跡)」や「応神天皇軽島豊明宮跡」などがあるので、その周辺に人々の集まる市がたっていたものと思われ、人麿の隠妻もこのあたりに住んでいたのでしょう。 歌の内容からも分かるようにこの妻はなんらかの理由で人に知られないように持つ「隠妻(こもりづま)」だったらしく、人に知られないようにと妻の家に頻繁に通わずにいた内に亡くなったしまったようですね。 そんな「亡くなった妻にもう一度逢いたいと軽の市に立ってはみたけれど、畝傍の山に鳴く鳥の声も聞こえず妻によく似た人すら通らないので、妻の名を呼んで袖を振ったことです。 」と、なんとも切ない思いが切実な言葉となって詠われていますね。 「袖を振る」とはこの時代の術式のようなもので、「おいでおいで」と袖を振って恋しい人の魂(生者死者にかかわらず)を自分のほうに引き寄せる行為のことです。 なんだか、隠妻の名を呼びながら涙を流して袖を振る人麿の姿が、目に浮かんでくるような哀しい一首ですよね。 近鉄吉野線岡寺駅のすぐ西にある牟佐坐神社の前にこの歌(歌の一部のみ)の歌碑があります。 奈良県にある橿原神宮駅の東、剣池の南西にある「法輪寺(軽寺跡)」。 この辺りに軽の市があり人麿の隠妻も住んでいたのでしょうか。 軽寺跡解説。 法輪寺(軽寺跡)の裏(北側)には「応神天皇軽島豊明宮跡」があり、万葉集巻十一(二六五六)の歌の歌碑などもあります。 スポンサード リンク 関連記事 万葉集巻二の他の歌はこちらから。 万葉集書籍紹介(参考書籍) 中西進 (講談社文庫) 定価620円〜〜1020円(税込み) 県立万葉文化舘名誉館長でもある中西進さんによる万葉集全四冊&別冊万葉集辞典です。 万葉集のほうは原文、読み下し訳、現代語訳、解説文が付けられていて、非常に参考になりこの4冊で一応、万葉集としては充分な内容になっています。 他の万葉集などでは読み下し訳のみで現代語訳がなかったりと、初心者の方には難しすぎる場合が多いですが、この万葉集ではそのようなこともありません。 (トップページ)へ戻る 当サイトはリンクフリーです、どうぞご自由に。 Copyright c 2015 Yoshihiro Kuromichi plabotnoitanji yahoo. jp スポンサード リンク.

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柿本 人麻呂 万葉集

柿本人麻呂:万葉集を読む 万葉集を読む | | | | | | 柿本人麻呂 柿本人麻呂は、万葉歌人のなかでも、最も優れた歌人であったといえる。 万葉集は、長い時代にわたる大勢の人の歌を収録しており、歌風にはおのずから変遷が見られる。 人麻呂は、万葉の時代の丁度中間の転換期に現われて、それ以前の古代的なおおらかさを歌った時代から、人間的な肌理細やかな感情を歌うようになっていった時代とを橋渡しするような存在である。 そういう意味で、万葉の時代を象徴するような歌人である。 柿本人麻呂の生涯については、わからぬことも多いが、持統天皇の時代に、宮廷歌人として多くの儀礼的な歌を作ったことを、万葉集そのものが物語っている。 その歌は、古代の神話のイメージを喚起させて、雄大なものがある。 宮廷歌人としての人麻呂は、天皇や皇子たちの権威をたたえたり、皇族の死を悼んだり、折に触れて宮廷の意向に応えていたと思われる。 こうした宮廷歌人の役割は、古代における部曲の一つのあり方だったように思われる。 柿本人麻呂は相次いで失った二人の妻のために、哀切きわまる挽歌を作っている。 また、旅の途中に目にした死者を見ては、彼らの不運に感情移入して、歌わずにはいられなかった。 それらの歌に響く人麻呂の人間的な感情は、時代を超えて人びとの心を打つ。 日本の詩歌の歴史は、柿本人麻呂を得ることによって、豊饒さを持つことができたと言える。 柿本人麻呂の死については不明な点が多く、古来様々な憶測を呼んだ。 有名な憶測として梅原猛の水死説があげられるが、根拠らしいのもはほとんど示しておらず、文字通り憶測にとどまっている。 筆者は、独自の考察をもとに、柿本人麻呂火葬説を提出した。 万葉集中における柿本人麻呂自作の歌は百首に上る。 その他に、柿本人麻呂歌集の中にも人麻呂自作の歌が交っている可能性がある。 ここでは、人麻呂の自作が明らかな歌のうちから代表的なものを選んで、鑑賞しながら適宜解説を加えたい。 柿本人麻呂歌集の歌については、別途万葉集拾遺の部分で触れたい。 ||||| |||| 作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved C 2007 このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである.

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