チャンドラ グプタ。 チャンドラ グプタ 誕生

アレクサンドロス大王遠征あってこその仏教成立

チャンドラ グプタ

第124話 古代北インド統一王朝の終焉 ~ヒンドゥー教の成立~ 4世紀のインド半島北部(北インド)では、(A. 1-3C)が退いた後、当時北インドで最も強力だった国家・マガダ国(B. 6C-B. 1C)の復活がはかられ、A. 320年、 パータリプトラ(現ビハール州パトナ)を都として復活、 グプタ朝(320-550? )がおこされた。 初代王の チャンドラグプタ1世(位320-330?。 "大王たちの王")、第2代のサムドラグプタ王(位330? -380? )で基礎固めが施されて、領域を拡大していった。 そして、第3代、" 超日王(ちょうにちおう)"と称えられた チャンドラグプタ2世(位380? -414? )でグプタ朝の全盛期を迎えた。 グプタ朝では、文学の分野において、チャンドラグプタ2世に仕えた詩聖 カーリダーサ(生没年不明。 5Cの人)の名作『 シャクンタラー』・『メーガドゥータ』といった サンスクリット文学が王室の保護下で広く読まれた。 4世紀頃に原型があったとされる『 マハーバーラタ』・『 ラーマーヤナ』の二大叙事詩も完成され国民文学として愛読された。 またクシャーナ朝時代のガンダーラ芸術のような、ギリシア的要素を含む文化は影を潜め、インド古典文化が開花し、 グプタ様式と呼ばれた。 インド西部、 アジャンターやエローラの石窟寺院は有名で、そこで描かれた多くの壁画は、日本にも伝播して、法隆寺の壁画にも影響を与えた。 また中国東晋(とうしん。 317-420)の僧・ 法顕(ほっけん。 337? -422? )が訪れたり、5世紀に大乗仏教教学の拠点たる ナーランダー僧院が建設されたのもこの王朝時代であった。 一方、信仰を基礎とする バラモン教もこれまで仏教やに圧倒されていたが、グプタ文化の波に後押しされて復興の道へと進んでいった。 バラモンが進展するにつれて、ヴェーダ聖典ならびに、(四種姓)におけるバラモンの権威が再認知された。 やがて、バラモン教に先住民の民間信仰が融合していき、これが王室にも認められ、民衆に普及していった。 これが、後に ヒンドゥー教(ヒンズー教)と呼ばれるインドの民俗宗教であり、仏教の対抗宗教として誕生した。 "ヒンドゥー"は、"インダス川"を意味するサンスクリットの"Sindhu"に由来するペルシア語である。 イスラム教徒がインド侵入の際にインド人のことを"ヒンドゥー"と呼んでいたようである。 イギリスがインドを植民地にして以来、英語圏において"Hinduism(=ヒンドゥー教)"の語が用いられ、広く普及した。 民俗宗教であるために、時代や地域によってその多種多様な要素をもっているが(混合宗教)、多神教だったの信仰、またヴァルナやそれに属する(いわゆる カースト制度)など、バラモン教の共通要素を多く持つ。 また"崇高な神の歌"を意味する『バガヴァッド・ギーター』という聖典的詩編も重要な意義を持つ。 は、ヴェーダ時代から崇拝されている雷の神インドラや火の神アグニ以上に中心となる3つの神が存在した。 すなわち、 ヴィシュヌ神、 シヴァ神、 ブラフマー神の3神である。 ヴェーダ時代では太陽神だったヴィシュヌは、ヒンドゥー界では世界を 維持する立場となり、暴風神ルドラを前身にもつシヴァは世界を 破壊して新たに創造する立場をとる。 シヴァは破壊・創造以外にも 舞踏(ナタラージャ)・芸術・苦行・家畜(パシュパティ)といった多面的な立場をとり、多くの親族を増やしていく。 ブラフマー神は 創造の神だが、前2神と比べると影が薄く、民間からの信仰もあまり集められなかった。 グプタ朝はチャンドラグプタ2世のとき北インド統一を果たしたが、第4代クマーラグプタ1世(位414? -455? )の晩期に遊牧民 エフタル(イラン系?トルコ系?)が来襲し、国力は衰え、全盛期は終わった。 しかし第5代スカンダグプタ(位455? -470? )がこれを撃退させ、王朝再興に一役買った。 スカンダグプタ王没後は、急速に規模が縮小、エフタルの再来も招いて王朝は再び衰退期へ向かった。 結果版図はビハール地方(ガンジス中流)とベンガル地方(ガンジス下流)に限られ、550年頃に滅亡した。 その後7世紀になって、 ハルシャ=ヴァルダナ(590-647。 位606-647。 戒日王)が カナウジ(カーニャクブジャ。 曲女城)を都に を開いて北インド統一を果たし、唐の僧である 玄奘(げんじょう。 602-664)や 義浄(ぎじょう。 635-713)をナーランダー僧院に招くなどして繁栄を極めたが、ハルシャ王の死後、王朝はほどなく分裂、北インドでの統一は終わった。 その後の北インドでは仏教は衰退、13世紀にイスラム勢力(デリー=スルタン)が政権を獲得するまで、小王国が乱立する不安定な時代が続いた。 ハルシャ王の没年である647年でもって、インドの古代史は終末とされた。 "高校歴史のお勉強"、再始動いたしました。 長らくお休みさせていただき申し訳ございませんでした。 またどうぞ宜しくお願いいたします。 さて、「」・「」と続いた北インド古代史も今回が完結編です。 外来王朝だったクシャーナ朝に代わって、土着王朝であるグプタ朝が誕生してからのお話です。 この時代はこれまでのガンダーラ芸術のようなギリシア/ヘレニズムの要素を含んだ文化・芸術とは異なり、純インド産の文化が発展しました。 またこうしたことから、ヒンドゥー教が生まれ、カースト制度が定着していきます。 さて、今回の学習ポイントです。 まずはグプタ朝ですが、首都はパータリプトラ(の首都としても覚えましょう)、創始者のチャンドラグプタ1世、全盛期のチャンドラグプタ2世(超日王)は入試必須用語です。 大事ですよ。 滅亡はエフタルの侵入が原因です。 では、サンスクリット文学が重要です。 代表はカーリダーサの『シャクンタラー』ですね。 また美術ではアジャンターとエローラの窟院が有名。 雲崗の石窟や、法隆寺の壁画などに影響を与えます。 またナーランダー僧院も登場しました。 のちに玄奘や義浄がここで学びます。 ナーランダー僧院ができる前には法顕もグプタ朝に来ています。 ちなみに、玄奘はインド訪問の際、往路復路ともに陸を選び、義浄は海を選んでいます。 玄奘作『 大唐西域記(だいとうせいいきき)』、義浄作『 南海寄帰内法伝(なんかいききないほうでん)』のタイトルから推察できます。 ちなみに法顕は往路は陸、復路は海を選んでいます(旅行記に『 仏国記』があります)。 この往復に選んだのは陸か海かという問題がかつて関西の難関私大で出されたことがあります。 ヒンドゥー教に関しては、バラモン教を基礎にした混交宗教であることを知っておきましょう。 また3最高神(ヴィシュヌ、シヴァ、ブラフマー)も重要で、ヴィシュヌが維持、シヴァが破壊、ブラフマーが創造を司っていることを覚えて下さい。 あと、紀元前後に南インドのデカン地方でおこったサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝。 1-2C頃が中心)のもとで成立したダルマ・シャーストラも大事です。 ダルマ・シャーストラとは"法典"のことで、生活習慣・道徳・宗教・カースト社会などの規範を法典として大系化したものです。 その代表である『 マヌ法典』は有名で、インド法典の集大成です。 このマヌ法典も重要です。

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チャンドラグプタ1世

チャンドラ グプタ

歴史 [ ] 前史 [ ] グプタ朝の始祖であるグプタ(シュリーグプタ)は、ごろに現在のビハール州南部に当たるマガダ地方を領するようになり、そのあとを息子のガトートカチャが継いだ。 この二人は後の碑文において大王()と呼ばれるのみであり、実際にはマガダ地方の小領主に過ぎなかったと考えられている。 チャンドラグプタ1世 [ ] グプタ朝が実質的に建国されるのは(位320年 - 335年頃)の時代である。 チャンドラグプタ1世はビハール州北部に強い勢力を持っていたリッチャヴィ族の王女クマーラデーヴィーと結婚することでリッチャヴィと強固な婚姻同盟を結び、さらにその力でガンジス川中流域へと進出。 を都とし、この地域の覇権を握って「マハーラージャーディラージャ(大王の中の王)」を称するようになった。 後にグプタ朝では、319年または320年を紀元とするグプタ暦が使用されるが、紀元とされたこの年はチャンドラグプタ1世の即位年であると考えられている。 サムドラグプタ [ ] 第2代の(位335年頃 - 376年頃)は各地に軍事遠征を行い、上流域や中央インドの一部、まで勢力を拡大し、領域内の支配体制を固めるとともににまで政治的影響を及ぼすこととなった。 この時期に彫られたイラーハーバード石柱碑文には、サムドラグプタの軍事的、政治的な功績が刻まれている。 この時代にグプタ朝を中心とする政治秩序が確立され、グプタ朝は主に中心部を直接支配地とする一方、辺境においてはその地域の首長を支配者として認めた。 また、サムドラグプタはアシュヴァメーダ(馬祀祭)などのの儀式を挙行し、バラモンを統治体制の重要な一部となした。 一方で、仏教などほかの宗教に対しても寛容な姿勢で臨んだ。 サムドラブプタ没後、発掘された貨幣や碑文、伝承や同時代の劇作などから、短期間王が継いだと推定されているが、明確なことは不明である。 チャンドラグプタ2世 [ ] (位376年頃 - 415年頃)のとき、北西インドのとに在ったを征服して、ついにを統一し、全盛期を迎えた。 また、の ()の王ルドラセーナ2世(Rudrasena II)に娘の ()を嫁がせて姻戚関係を結び、南インドにおける勢力を増大させた。 この時期、の僧、が訪れている。 なお、この頃、が台頭し、文化は衰退を始めた。 衰退 [ ] 第4代 ()(位415年頃 - 455年)の治世は、やも学ぶことになるが設立されたことで知られるが、その治世の末期には遊牧民()の侵入によって北西部の支配が動揺をはじめる。 その子、 ()(位455年 - 467年)は、皇太子プルグプタに打ち勝って王位を獲得、インド北西部領域の支配につとめ、かつての栄光を一時的に回復した。 しかし、その後は小地域の支配者層が力を強め、グプタ朝の宗主権はいまだ広い範囲で認められていたものの、支配は徐々に名目的なものとなっていった。 さらに6世紀初頭にはエフタルが再進攻を行い、最終的に撃退には成功したものの国力は決定的に衰えて従属王朝が相次いで独立し、は分裂状態となった。 6世紀のグプタ朝の版図は北とに限られるようになり、550年頃の ()の治世にの侵攻によって滅亡した。 影響 [ ] その後、北インドは混乱期を迎え、606年にが台頭し、を興した。 しかし、647年にハルシャ・ヴァルダナが没すると、「時代」と呼ばれる混乱期が続いた。 政治 [ ] グプタ朝は郡(ブクティ)、県(ヴィシャヤ)、邑(グラーマ)とつながる地方行政機構を整備し、郡県には中央から官吏を派遣して官僚制度を整えた。 この制度が整えられたのはガンジス川流域などの中央部の直轄地域に限られ、地方の有力勢力や辺境の勢力は有力者を統治者に任命してその地方の統治を任せ、貢納を受け取るといった統治スタイルがとられた。 この方法でグプタ朝は速やかに勢力を拡大したものの、5世紀後半以降グプタ朝の勢力が衰えを見せると、それまでの統治で力を蓄えていた地方長官や従来の地方有力者が従属王権となり、さらには宗主権も認めなくなって独立していくこととなった。 一方で、これらの従属王権は自らが力を蓄える基盤となったグプタ朝の行政システムをそのまま踏襲し、以後の各王朝に大きな影響を与えた。 経済 [ ] ()の肖像が刻まれた銀貨 商業、金融業、手工業、化学工業が盛んであった。 は既に衰退していたが、における季節風貿易は引き続き活況を呈しており、西のや、などとの交易が盛んに行われた。 を渡って東の東南アジアなどとの交易も盛んであり、東南アジアから中国へと向かう交易ルートの存在はの「」でも確認できる。 これらの交易を通じ、沿岸のが繁栄した。 また、法顕が往路は陸路を取ったことからも伺えるように、に結びついた内陸の交易ルートも繁栄していた。 グプタ朝ではが盛んに鋳造されたほか、銀貨・銅貨も発行された。 当初はの金貨にならったが、 ()の治世からはスヴァルナと称される独自の金貨が作られた。 金貨や銀貨は高い価値を持ち活発な交易を支えたが、日常生活においては銅貨やといった少額貨幣が多く用いられた。 農村では、荒蕪地を中心にバラモンや宗教施設の管轄下に土地がおかれていき、低湿地や森林などの開拓が進められた。 王朝の後期になると、フーナ()の侵入などによって都市網が衰退し、農業経済へと移行していった。 宗教 [ ] グプタ朝はを国家の柱として位置づけ、アシュヴァメーダ(馬祀祭)などのの儀式を挙行し、バラモンを統治体制の一部に組み込んだ。 村落へのバラモンの移住が始まるのもこの時代である。 バラモンは農村にて租税免除などの特権を与えられ、先進技術や学問を農村に伝えるとともに農村の秩序維持の役目を果たした。 また、王家は神を特に信仰し、「至高のヴィシュヌ信者」との称号を持ち、バラモンの言葉であるを公用語とした。 一方で、がこの時代に設立されるなど、仏教などほかの宗教が迫害されることはなく、これらも庇護を受けた。 しかし、インドにおける仏教は教学研究は盛んになったものの、この時代から衰退に転じるようになった。 社会 [ ] 都市の商人・職人は、互助組織として「ニガマ」、「シュレーニー」といった組合を設けており、彼らが用いた印章が多く出土している。 こうした組織は、都市行政にも関わっていたことが推測されている。 一部の富裕化した人々は豪奢な生活を送り、文化の発展を支えることになった。 農村社会ではクトゥンビンと呼ばれる小農が基盤となっていた。 一方、この時代からは上記の開発政策の結果としてが農村社会へと進出し、指導的立場となった。 辺境の未開地にまでバラモンの居住地が拡大したことは、地方における農業の発展や政治システムの伝播につながったとされる。 文化 [ ] 美術 [ ] アジャンター石窟寺院の壁画 グプタ朝時代に栄えた美術は、これまで文化の影響が色濃かったに代わり、純インド的な仏教美術として知られ、、または「グプタ様式」と呼ばれる。 代表的なものとして、寺院の壁画や「グプタ仏」と呼ばれる多くの、特に薄い衣がぴったりとはり付いて肉体の起伏を露わにする表現を好んだの仏像が知られる。 これらの美術の中心は帝国の首都のあるマガダ地方ではなく、マールワーやサールナートといった地方であった。 文学 [ ] は最盛期を迎え、二大叙事詩である『』『』が今日の形をとるようになった。 戯曲『』や抒情詩『』を著したのほか、戯曲『』の作者も活躍した。 による性愛書『』は、当時の上流階級の生活をうかがうことができる。 説話集『』は、インドのみならず東南アジアや西アジアの説話文学に影響を与えた。 言語でも、の辞典『』をがまとめた。 『』も完成した。 科学 [ ] グプタ朝時代には、特にやや、において大きな進歩があった。 はごろ、グプタ朝の首都パータリプトラにおいて『アーリヤバティーヤ』 Aryabhatiya を著し、西方からもたらされたギリシア天文学を完全にインド化するとともに、それ以後の ()やの発展の基礎を作った。 歴代君主 [ ]• (320年頃 - 330年頃)• (330年頃 - 380年頃)• (380年頃• (380年頃 - 414年頃)• ()(414年頃 - 455年頃)• ()(455年頃 - 467年頃)• ()(467年頃 - 473年頃)• (473年頃 - 476年頃)• (476年頃 - 495年頃)• ()(495年頃)• ()(495年頃 - 510年頃)• ()(510年頃 - 543年頃)• ()(543年頃 - 550年頃) 脚注 [ ] [].

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古代北インド王朝の終焉~ヒンドゥー教の成立~

チャンドラ グプタ

古代インドので、にを倒して、を興した。 在位前317~296年頃。 インド史上最初の大帝国を出現させたので「インド人の最大の王」とされ、国民的英雄である。 チャンドラグプタはがペルシア帝国を倒し、したことに刺激を受け、大王が去った後のパンジャーブに入り、支配を及ぼした。 その年代には不明な点が多いが、ギリシア側資料に サンドラコットスという名であらわれる人物に比定されている。 またヘレニズム時代のの使節としてに派遣されたメガステネスの記録によってチャンドラグプタ時代のインドの状況を知ることが出来る。 チャンドラグプタのマウリヤ朝に仕えた宰相のには、国家統治について述べた『アルタ=シャーストラ』(実利論)が残されている。 初めてインドを統一 前4世紀、北インドのガンジス川流域の最大の政治勢力はマガダ国であり、そのナンダ朝の支配下にあったが、同国出身の一青年チャンドラ=グプタが卑賤の身分から身を起こして、ごろに、おそらく西北インドにおいて挙兵し、同地域からギリシア人の勢力を一掃してマガダ地方に進攻した。 ナンダ朝を滅ぼしてその領土を占取し、他の王朝を征服しただけでなく、北はヒマラヤ山麓におよび南はデカン高原を越えて南インドに及び、東はベンガル湾、西はアラビア海に達するインド最初の大帝国を建設した。 彼の形成した国家は、従前のインドには例を見ないほど集権的性格が強かった。 <中村元『古代インド』2004 講談社学術文庫 p. 163-165。 初刊は『世界の歴史5ガンジスの文明』1977 講談社> セレウコス朝シリア軍を撃退 チャンドラグプタがインドを統一した頃、西方からシリア王(ニーカトール 在位前305~前281)がにインダス川を越えて侵入してきた。 チャンドラグプタはその軍隊を撃退し、講和条件として両王家のあいだいに婚姻関係を結んだ。 チャンドラグプタはセレウコスの皇女を妃としたらしい。 同時にチャンドラグプタはセレウコスの占領地4州を手にいれ、その代わりに象500頭を贈った。 セレウコスは後にこの象部隊を使って、であるで勝利することとなる。

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