瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ。 百人一首 崇徳院(すとくいん)77番歌 小倉百人一首辞典

瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ|崇徳天皇|小倉百人一首

瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ

崇徳天皇は鳥羽天皇の第一皇子としてうまれ、わずか4歳で鳥羽天皇から譲位されて即位します。 しかし、この当時の宮廷のトップは院政を行っていた白河上皇でした。 白河上皇は鳥羽上皇の祖父(つまり崇徳天皇の曽祖父)にあたります。 実は崇徳天皇の生母は元々は白河上皇の愛人だった人物でした。 そのため、鳥羽天皇は崇徳天皇を自分の子供ではなく、祖父の子供つまり自分の叔父だと思っていました。 もしかしすると、わずか4歳の崇徳天皇に譲位したのも白河上皇の意向があったかもしれません。 たった4歳で即位した崇徳天皇でしたが、白河上皇が薨去すると事態は大きく変わります。 白河上皇のあとを次いで院政を開始したのは鳥羽上皇でした。 このように上皇の中で、天皇家の家長として院政を行う人のことを「治天」または「治天の君」などと読んでいます。 治天になった鳥羽上皇は崇徳天皇を遠ざけます。 まず、弟の近衛天皇に譲位させます。 近衛天皇が若くしてなくなると、次の天皇は崇徳天皇の子供の重仁親王となる見通しでしたが、鳥羽上皇は崇徳天皇と近衛天皇の間の子供、後白河天皇を即位させました。 これによって、鳥羽上皇と崇徳上皇の対立は決定的になります。 そして、1156年。 鳥羽上皇がな亡くなると、崇徳上皇が治天の地位を目指して後白河天皇に対して武装蜂起しました。 世に言う保元の乱です。 しかし、所詮は反乱軍、崇徳上皇方はあっさりと負けてしまい、上皇は讃岐に流刑となりました。 もう一人の隠し子 実は白河上皇には、もう一人隠し子がいました。 NHK大河ドラマ『平清盛』を見ていた人はすぐにわかるかと思います。 そう、平清盛その人です。 隠し子であるので、当然確たる証拠は無いのですが、当時から平家の御曹司は白河院の胤であるとの噂があったそうです。 これこそ、僕がこの一首を政治的に見たくなる理由です。 「同じ白河院の子として生まれ、今までは別々に生きてきたけど、今こそ力を合わせるときだ」という崇徳上皇から平清盛へのスカウトメールなんじゃないかと思っているのです。 そういう見方をすると、この歌が別れた女性への未練を歌った弱弱しい歌から、決起にあたって同士を募る勇ましい歌のように見えてきます。 「瀬を早み」「岩にせかるる」といった表現が非常にスピーディーかつ力強い表現のように見えてくるのです。 とはいえ、これは僕の完全な思い込み、はたして真実はどこにあるのか。 もっと詳しい人に機会があれば聞いてみたいですね。 祟と徳 さて、この崇徳院ですが、「祟」に「徳」という字が入っています。 このネーミングには非常に深い意味があるのです。 そもそも、崇徳院は保元の乱に破れ、犯罪者として讃岐の地に流されたわけですから、無くなった後も諡号や追号が贈られることはありませんでした。 そこで、当時の人は流刑先にあわせて「讃岐院」と呼んでいました。 ところが、この讃岐院、死後は怨霊となって大暴れします。 保元の乱に関与した人々が次々の不慮の死を遂げたり、平家打倒の動きが広まり社会不安が増加したり、これらは讃岐院の祟りだと恐れられました。 そこで、後白河上皇は讃岐院に対して罪を赦免し、改めて「崇徳院」として追号を贈ることにしました。 「徳」の字は流刑や政争に破れた結果として、遠く離れた土地で無くなった天皇に贈られました。 ほかには、平家とともに壇ノ浦に入水した安徳天皇、承久の乱で敗れて佐渡で無くなった順徳院、古くは中大兄皇子(のちの天智天皇)との政争に破れ置いてけぼりにされた孝徳天皇などです。 天皇の名前を見て、「徳」の字が入っていたら、それは悲しい最後を迎えた天皇だということがわかるようになっています。 追号の変更 讃岐院が崇徳院になったように、後世になって追号が変更になった天皇は実は結構な数存在します。 しかも、その多くは近代になってからでした。 以下に追号に変遷のあった天皇をリストアップしました。 ということは、またいつか、政治体制の変化によって「やっぱり、この天皇は認めない」なんて話が出てくるかもしれませんね。 今日のおすすめ 崇徳院といえば、大河ドラマ平清盛でARATAさんが熱演してたのが印象的でした。 画面が汚いなんて評価もありましたが、近年の大河の中では傑作に入る部類かと思います。 平清盛.

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77 瀬をはやみ〜 |歌の意味・解説・翻訳【百人一首】

瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ

瀬 せをはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ この和歌は、百人一首にも収録される和歌で、 崇徳院 すとくいんという人物が詠んだものです。 百人一首は、 藤原 定家 さだいえが古今東西日本中から集めた和歌で構成した歌集で、「小倉百人一首」ということもあります。 これは名前の通り100首からなり、 「恋、春、夏、秋、冬、旅(離別)、雑」という部立てによって大別されます。 そのうち 77番「恋」が、崇徳院の詠んだ上記の「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」という歌なのです。 私はこの歌が百人一首でもっとも好きな歌です。 (これテストに出ますよ。。。 ) 冗談はさておき、この歌の歌意は、 瀬 せをはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ 川瀬(川の浅いところ)の流れがはやいので、岩にせき止められる滝川の水が、二つに分かれても、後には必ず一つになるように、あの人と今は別れてもいつかはきっと逢おうと思う。 素敵な歌ですよね。 さてこのままこの歌について一本の記事が書けてしまうところですが、それは別の機会に譲るとして、タイトルにある 「形容詞の語幹用法『~を~み』」についてみていきましょう。 語幹とは 語幹とはその字のごとく 「語の幹」になるところで、 その語の変わらない部分を指します。 形容詞「なし」や「悲し」でいうと、 「な」「悲」が語幹です。 あらためて崇徳院の和歌です。 瀬 せ を はや み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ 川瀬(川の浅いところ)の流れ が はやい ので、岩にせき止められる滝川の水が、二つに分かれても、後には必ず一つになるように、あの人と今は別れてもいつかはきっと逢おうと思う。 「~を~み」があります。 これは訳すと 「~が~ので」となります。 この用法は、平安時代以前の用法ですが、平安時代も 和歌においてはみられる用法です。 赤の部分は、 「瀬」が 体言(名詞)で、 「はや」が形容詞「はやし」の 語幹「はや」です。 つまり「~を~み」は 「 体言+ を+ 語幹+ み」という形式になります。 これはとってもとっても大切ですよ! さてところで、 「 体言+ を+ 語幹+ み」は重要といいましたが、なかには、 「 体言+ 語幹+ み」というものも見られます。 「を」を省略したものです。 これは 「山深み」というような例があり、 訳は 「山の奥深くなので」となります。 このように訳は変わりません。 「瀬をはやみ」で 「~を~み」 を覚えて、「を」は省略されることがあると考えておけば大丈夫です。 まあこの 「 体言+ を+ 語幹+ み」は超頻出でしょう。 ここで必ず押さえてしまいましょう。

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瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の 割れても末に あはむとぞ思ふ

瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ 崇徳天皇『詞花和歌集』恋上(二二九)『』七七 注 詞花和歌集は「しかわかしゅう」と読む。 現代語訳 川の流れがとても速いので 岩にせき止められる 急流が 二つに分かれてもまた 一つになるように、あの恋しい人といつか逢いたいと思う 文法• せく…せきとめる• 滝川…急流 瀬をはやみ は「名詞(A)+を+形容詞語幹(B)+み」という構文で「AがとてもBなので」という意味。 ここでは「瀬がとても速いので」と訳す。 岩にせかるる滝川の 川の流れが岩にぶつかってせき止められる様子をイメージしています。 は「せき止める」を意味する動詞で、続けて受身の助動詞「る」の連体形がきています。 せかるる =せか+るる =カ行四段活用「せく」未然形+助動詞(受身)「る」連体形 われても末にあはむとぞ思ふ 上の句で、川の流れが岩にぶつかってせき止められました。 せき止められるということは、その川が二つに分かれるということです。 しかし最後は一つになります。 あはむとぞ思ふ =あは…ハ行四段活用「あふ」未然形 +む…助動詞(意志)「む」終止形 +と…格助詞 +ぞ…係助詞 +思ふ…ハ行四段活用「思ふ」連体形 「ぞ」は係助詞でによって「思ふ」を連体形にします。 作者 崇徳天皇(一一一九~一一六四).

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