エログロ ナンセンス。 【閲覧注意】鬼畜系・エログロ・怪奇・特殊漫画家まとめ

江戸川乱歩『芋虫』あらすじ(ネタバレ)★食欲がなくなる?乱歩ワールド全開の話題作

エログロ ナンセンス

「阿部定パニック」(1936年5月)。 エログロの極み・に昂奮する巷のナンセンスぶりを新聞各紙が面白おかしく書き立てた この時期には文字通り、エロ・グロ・ナンセンスをテーマとする本・雑誌・新聞記事・楽曲などがブームとなり、盛んにリリースされた。 時代としては、が起こった1929年(昭和4年)ごろから、が起こった1936年 昭和11年 ごろまでの期間に当たる。 1928年にの『』が雑誌「」に掲載され、 猟奇ブームが巻き起こる [ — ]。 同年、が『』を発表。 『江戸川乱歩全集』が刊行された1932年頃がブームのピークである。 夢野久作は1935年に『』が刊行された後、1936年に死去。 同年、江戸川乱歩は『』で少年向けに転身、戦時体制に突入するとともに旧作は絶版・発禁、さらには断筆に追い込まれ、ブームは終息する。 新聞報道では1936年5月にと言う大ネタがあり、その報道を最後とする。 歌謡曲では、1936年3月にリリースされて大ブレイク中の『忘れちゃいやヨ』が、同年6月に「エロ歌謡」として発禁・回収。 同月にはの放送が開始され、エログロナンセンスの時代は終わる。 書籍に関しては、戦前のへの納本・検閲を通じて発禁とならずに(一部伏字・削除の上で)普通に流通した本の他に、検閲の結果発禁となった本と、納本・検閲を通さず会員制のサークルによる頒布会の形式をとって流通した(アングラ本)があり、それぞれ研究の対象となっている。 発禁本は主義者(イスト)の本もあるが、ほとんどはエログロナンセンスの本である。 当時の発禁本については戦後のに収蔵されているものが、国立国会図書館によって『国立国会図書館所蔵発禁図書目録』としてまとめられているほか、一部は戦後に占領軍に接収されたものが米国議会図書館に収蔵されており、国立国会図書館と米国議会図書館の共同でデジタル化の作業が進められている(たとえ『』のようなタイトルでも、現代の基準では言うほどエロくないので、著作権が満了している限りはデジタル公開できるものが多い)。 また、検閲で一部削除されて出版が許可されたものについても『検閲削除処分切取ページ集』としてまとめられている。 ただし、日本では戦後に至っても発禁が行われている状況で、国民が国立国会図書館所蔵の発禁図書を閲覧できるようになったの自体がごく最近であるため、まだあまり研究が進んでいない。 らの尽力によって調査および公開が進められているが、当時の約11,000点以上の発禁本のうち国立国会図書館が所蔵するのは約7,000点規模と推測されており、後は個人の蔵書に頼ることになる。 発禁となったために結果として地下本として流通されることになった作品とは違い、最初から地下本として流通されるために制作された作品は、国立国会図書館に収蔵されておらず研究者が自力で発掘する必要がある上に、官憲の追及を避けるために発行者や発行年すら不明の物も多く、地下本の世界についてはよく解っていない。 が2011年に明治大学に寄贈した、7000点に及ぶ「城市郎コレクション」が特筆すべきコレクションで、研究者による解読を待っている。 エログロナンセンスのムーブメントを担った大手出版社としては、「新青年」のや、「江戸川乱歩全集」のなどがある。 戦後に平凡社自身によって、サブカルチャーの文脈で再評価されており、「太陽」「別冊太陽」レーベルで江戸川乱歩や地下本の特集などが組まれている。 「太陽」の記事や著作などを通して、戦後にエログロナンセンス時代を再評価した、やらの功績は大きい。 発禁 [ ] 大日本帝国で出版されるすべての出版物はによってが行われ、エロ・グロ・ナンセンスをテーマとする本はに基づいて、雑誌や新聞はに基づいて、即座に発売禁止処分となった。 検閲はとても厳しいうえに、基準がよく解らず、のように発禁がわりと見えている作家だけでなく、出版前から「名著」と称えられ戦後には教科書に掲載されることになる萩原朔太郎『月に吠える』ですら、初版は発禁を食らった。 そのため、1920年代には、大手出版社では納本時の検閲に先立って「内閲」と呼ばれる事実上の事前検閲制度が導入されており、検閲官との協議の上、ゲラの段階で検閲で引っかかりそうなところはあらかじめ伏字にしておくことで、発禁を逃れることにしていた。 例えば江戸川乱歩やを擁する『』や『』は、伏字が多かった。 しかし、「内閲」を行っているのにもかかわらず『改造』1926年7月号が発禁を食らったため、出版業界は大いに反発する。 同年にはを中心に「検閲制度改正期成同盟」が結成され、内務大臣に直接面会して圧力をかけるなどした結果、1927年に「内閲制度」が廃止される。 おりしもの施行もあっての機運がピークに達していた時代であり、看板雑誌の発禁で経営が悪化した改造社が1926年にの刊行を始め、社の経営を建て直すとともに、結果的に出版業界として民衆に安価な本を供給する体制を整えることになるなど、後に中小出版社だけでなく大手出版社からも円本の形態で発禁上等のエロ・グロ・ナンセンス本が乱発される背景として、このような検閲・発禁をものともしない出版業界の自由な気風が醸成されていたことが背景にあった。 相変わらず検閲はとても厳しく、自主規制の伏字は多かったが、例えば「伏字表」と呼ばれる紙が付属しており、これを参照することで伏字になっている部分を埋められるなど、単に検閲に屈するだけでなく、検閲に対する何らかの策を弄していた出版社は多かった。 一方、検閲で発禁となった場合は、本当に発売できない。 ただし、発売前に当局に押収され、市場に全く流通しなかったはずの「発禁本」が、実際は大量に市場に流通している現実がある。 この時期に制作された、エロ・グロ・ナンセンスをテーマとするほとんどの作品は、頒布会の形式を用いて秘密裏に流通する「地下本」の形式を取って流通するか、もしくは検閲が済む前に発売してしまう「ゲリラ発売」の形式を取る。 中には、本をあらかた売り切った後で検閲用の本を内務省に納本し、押収される用に残しておいた少数の在庫だけを押収してもらうという人もいた。 「地下本」の頒布会として有名な「相対会」が戦後に公開したリストには、会長・などの名が記されているなど、「地下本」と言っても相当な規模の発行部数があり、また地下本を裁く法曹関係者ですら地下本の頒布会の会員が少なくなかったことが分かっている。 大手出版社でも、売れるとみると時機を逃さないために「ゲリラ発売」してしまった例がある。 例えば、平凡社が江戸川乱歩の大ブームに合わせて刊行した『江戸川乱歩全集』の付録『犯罪図鑑』(1932年)が「風俗壊乱」の罪で発禁となった例がある。 ブームの最盛期となる1932年頃には、平凡社や新潮社と言った大出版社までが発禁上等でエログロ本を乱発した。 レコードに関してはこれを専門に取り締まる法律が無かったため容易に取り締まれず、「エロ歌謡」が大流行して公然と一ジャンルをなした。 1934(昭和9年)8月に出版法の改正が行われ、改正出版法第三十六条によってレコードも正式に出版法に基づく検閲・発禁の対象となったが、しばらくは検閲が緩かった。 1936年頃から検閲が苛烈になり、によるレコードの旧譜の発禁も行われた。 発禁第1号として、漫才のレコードが「ふざけすぎている」として発禁となった。 さらに当時の大ヒット曲の『忘れちゃいやョ』(1936年)が「安寧秩序ヲ紊シ若ハ風俗ヲ害スル」(治安警察法第十七条)するレベルのエロさと判断され、治安警察法が適用され全レコードが回収された。 これをきっかけに、レコード業界でもそれまでの事後検閲に代わってレコード会社と内務省の協議による事実上の事前検閲制度の導入に至る。 エロ・グロ・ナンセンスによって、出版法や新聞紙条例で発禁になっても、最高刑が2年以下の禁固であり、それほどひどい刑罰を受けるわけではなかったので(普通は罰金で済む)、発禁本を専門に出版する人もいた。 例えば、明治・大正・昭和にかけて発禁を食らい続け、戦後もGHQによって発禁を食らったのような大物もいる。 さすがにクラスになると官憲の監視が常時付き、最終的に梅原は国外へ逃亡する。 で有罪になると最高刑が死刑であり、裁判を待たずに特高による獄中拷問死などが引き起こされることもあった。 ただし治安維持法は、非合法ではあってもエロ・グロ・ナンセンスのには適用されなかった。 また改造社は左翼系の出版物で発禁を食らうことが多かったが(例えば改造社はの『・工場細胞』で1933年に発禁を食らっている)、これも単に出版法に基づいてのもので、まして改造社は江戸川乱歩などの本を発禁にもならずに普通に出版していた。 このため、この時期のエロ・グロ・ナンセンス文化は、「テロよりエロ」「アカよりピンク」として、左翼が弾圧されることのバーターで内務省に黙認されていたとの説がある。 (ただし、出版法第26条で「政体ヲ変壊シ又ハ国憲ヲ紊乱」するものと定義される社会主義の出版物と、出版法第19条で「安寧秩序ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壊乱」するもの定義されるエログロナンセンス本との区別は、実際は必ずしも明確ではなく、エログロナンセンスの研究者である荒俣宏は『プロレタリア文学はものすごい』において、は「変態」「エログロ」だと主張している。 ) 1937年の日中戦争開始からは戦中期となって、検閲がさらに苛烈になり、エロ・グロ・ナンセンスの出版が許されなくなるだけでなく、かつてエロ・グロ・ナンセンスを許容したような出版界の自由な気風も取り締まられるようになる。 1930年代に大ブームを起こした江戸川乱歩も、戦時中は『芋虫』が発禁となり、既刊もほとんど絶版になるなどの苦難を受けた。 戦中期に消滅したエロ・グロ・ナンセンスの気風が復活するのは、戦後のの時代を待たねばならない。 アプレゲール期のにはGHQによる検閲が行われたが、それでも昭和初期のエロ・グロ・ナンセンス期と同様に自由な気風が復活した。 日本国憲法施行後もによるエロ・グロ・ナンセンスへの弾圧は続き(例えば、戦前に出版法違反で逮捕された相対会の小倉ミチヨは戦後に活動を再開したが、1957年に刑法175条違反で再び逮捕されている)、エログロナンセンス時代の文物をまともに再評価できるようになるのは弾圧が弱まった1970年代以後となる。 1990年代にはついに『犯罪図鑑』が平凡社によって復刻され、2010年代には当時の発禁書物がでネット公開される時代となっている。 出版 [ ] 文藝市場社 [ ] エログロナンセンスの帝王、の帝王、王、王、研究王と謳われた編集の雑誌『』新年号のを伝える(1928年12月) この時期のエログロナンセンスのムーブメントを先導したのが、が率いる「 文藝市場社」である。 文藝市場社の同人による代表的な刊行作品としては、上森健一郎・編『変態資料』(1926年)、・編『』(1928年-1931年)、『エロエロ草紙』(1930年、発禁)などがある。 中でも梅原北明は発禁本で捕まって出所してすぐに発禁本を作り始めるなど、発禁が間に合わないほどの膨大な出版点数で知られる。 同社のほとんどの本が会員制のサークルで頒布される頒布会形式をとっていた(地下本)のに対し、『グロテスク』はどうみてもアングラ本なのに書店で堂々と販売されていたことから、雑誌『グロテスク』は当時のムーブメントの代表作とみなされ、戦後には復刊も行われている。 また『グロテスク』第3号が発禁になった際には「 『グロテスク新年号』死亡御通知」と題した奇抜な新聞広告を出すなどして、そのセンスが当時と呼ばれたおしゃれな若者たちに受け入れられ、とても売れたという(「変態」や「エロ」などとタイトルにあっても、本のデザイン自体は若者受けする割と洒落たものが多かった)。 発禁スレスレの本で売れまくり、やがて連続して発禁を食らったために当局の手入れを受けた梅原北明は、内務省の検閲を受けた発禁本以外にも大量の地下本の発行を行っていたことが当局に発覚し、1930年代初めごろに官憲の逮捕を恐れて満州に逃亡。 上海で伏字が一切ないエロ雑誌『カーマシャストラ』などを発行していたが(実際は日本国内で出版されたようだが、地下本であるために詳細はよく解っていない)、1935年頃に出版業からは足を洗う。 たび重なる当局の手入れによって、文藝市場社に集っていた人々も散り散りになり、ブームは終息する。 相対会 [ ] とによる「相対会」も、当時のエログロナンセンスのムーブメントの一つとして特筆される。 小倉清三郎は1913年より雑誌「相対」を刊行し、性の研究に情熱を注ぎ、「」の言葉を生み出した。 雑誌「相対」は相対会の会員にのみ配布された雑誌で、表では流通できないため、地下流通である。 相対会には相当な人数が入会していたとされ、戦後に公開されたリスト『相対会第一組合特別会員と恩人』には、やなどそうそうたるメンバーの名前が並ぶ。 「相対」に掲載された性体験のレポート『赤い帽子の女』は、芥川龍之介の作品だという説がある。 小倉清三郎は1933年に逮捕。 小倉ミチヨも1936年に逮捕され、精神病院に収監される。 1941年に清三郎が死去した後、ミチヨが後を継ぎ、1944年まで細々と活動した。 なお、「相対」は戦後に復刻されるが、ミチヨは1957年に猥褻文書販売でふたたび逮捕され、失意のまま精神病院で亡くなった。 1990年代以後に河出書房新社によって「相対レポート・セレクション」として改めて復刻が行われている。 平凡社 [ ] 1930年頃より大手出版社もブームに参入し、発禁上等で露骨なエログロ本を刊行したが、特に平凡社は粗製のエログロ本を乱発した。 そのうち有名なものとしては、『世界猟奇全集』シリーズ(1930年-1932年)があり、横溝正史や江戸川乱歩などの有名作家が海外の奇書を翻訳したものとして、全12巻のうち5冊が発禁になったことでも話題になり、各巻ともに1万部を超える売れ行きを示した。 ただし、ゴーチェ『女怪』の翻訳者として名を連ねている江戸川乱歩は、実は名前を貸しただけで翻訳は全然知らない人が行ったことを『探偵小説四十年』で告白しており、他の書物も同様だったとみられている。 当時経営危機にあった平凡社は、同時期に発売された「江戸川乱歩全集」(全13巻、うち付録の『犯罪図鑑』が発禁)の大ヒットもあり、エログロナンセンスブームで会社を立て直す。 その他 [ ] その他の中小出版社によるものとしては、尖端軟派文学研究会の「尖端エロ叢書」シリーズなどがある。 大手出版社の作品としては、新潮社の『現代猟奇尖端図鑑』(1931年)があり、表紙画のをはじめとする豪華スタッフを起用、中小出版社の地下本とは格が違う豪華な製本、社を挙げた宣伝などでベストセラーとなり、エロは抜きにしても当時を代表する写真集となったが、新潮社の社史には載っていない。 なお、当時の風俗を作品内に描いたが文学的・文学史的に評価されているのとは違い、当時の風俗そのものであるエロ・グロ・ナンセンス本は文学としては全く評価されておらず、サブカルチャーとして研究の対象になっている。 新聞 [ ] 新聞記事でもエロ・グロ・ナンセンスなものが多くあった。 日本共産党の非合法機関紙であった『』の戦後の回想によると、1929年(昭和4年)の直後から、1936年(昭和11年)の勃発までをエログロナンセンスの時代としており、目の前の生活や政治などの問題を忘れさせるために大手新聞紙がこのようなエロ・グロ・ナンセンスの記事を執筆したもので、大手紙による報道合戦が起きた1936年のをブームの頂点としている。 『赤旗』の回想では、ののニュースに太ももの写真を付けて「エロ争議」と報道した大手新聞の記事が例に挙げられている。 歌謡曲 [ ] この時期の歌謡曲においては、「ネエ小唄」と呼ばれるジャンルが流行した。 「ねえねえ愛して頂戴ね」と歌うの『愛して頂戴』(1929年)がブームの火付け役で、扇情的な歌詞から「エロ歌謡」とも呼ばれたが、おりしも大恐慌による不況とともに左翼運動が激化していく頃であり、「テロよりはエロ」「赤色に染まるなら桃色のほうがマシ」として内務省に許容された。 しかし1936年、「ネェ 忘れちゃいやョ」と歌うの『忘れちゃいやョ』の「ネェ」の発音があまりにエロいと判断され、治安警察法が適用されてついに発禁となる。 歌謡曲の歴史においては、これにより「ネェ小唄」の時代が終わり、の時代となる。 エロ歌謡の発禁で活動休止に追い込まれた渡辺はま子は、1938年の『』の大ヒットにより、戦時下の国民歌謡歌手として表舞台に復帰する。 舞台・演劇 [ ] この時期を象徴する劇団が、1929年に浅草で旗揚げされたである。 代表の「エノケン」ことは、同時期に活躍した喜劇役者のとともに「エノケン・ロッパ」と並び称される一時代を築いた。 風俗 [ ] この時期の風俗としてでよく描かれるのが「」と呼ばれる喫茶店で、コーヒーよりも女給のエロを売りにするようになった。 はカフェーに通って浮名を流していたことで有名だが、のようにカフェーでバイトをしていた作家もいる。 また、日本の各地で開催されていた「」というイベントも特筆すべき風俗で、この時期は来場者の興味を引くためにエログロの見世物小屋的な演出を行っていた。 衛生博覧会は乱歩の作品にもよく登場する。 ちなみに、この衛生博覧会に用いる人体模型を製作していたのが、1925年に「島津マネキン」を創業して日本初となるの製造を行った(二代目社長)である。 参照 [ ]• 『弾圧をついて : アカハタの歴史』アカハタ関西総局、1948年。 : 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• 麻生結 2006年2月15日. 2018年9月12日閲覧。

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【ことばをめぐる】(980904)エログロ,サイノロ,淡谷のり子

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この記事を読むのに必要な時間は約 11 分です。 こんにちは、このかです。 江戸川乱歩の問題作『芋虫』。 乱歩先生の 「エログロナンセンスの極致」を楽しみたい方におすすめの作品です。 伏字だらけで出版され、今だに出版社によってはそのまま出版されている奇妙な作品ですよ。 「新潮文庫」は伏字なしなので、伏字のところを読み比べてみると、「伏せる意味がどこにあるの?」と思えておもしろいです。 プロレタリア文学が盛んだった時代に書かれたので、反戦・軍国主義批判とみなされた箇所が伏字になっているはずですけど。 江戸川乱歩は「戦争」など何の問題にもしていませんが、なぜか左翼からは称賛され右翼からは批判されたらしいです。 うっとおしいかったでしょうね・・・ さらっとストレスなく伏字なしで読みたい人には「新潮文庫」をおすすめします。 江戸川乱歩の短編は、何度も紹介しているこの1冊で決まりですよ。 全部おススメです! スポンサーリンク 両手両足・聴覚・言葉を失った人間 戦争で負傷した 須永中尉は、かろうじて命は助かったものの、四肢の全てを失い、耳も聞こえず口もきけない不自由な体になってしまいました。 彼に残された感覚は、 「視覚」と 「触覚」のみになったのです。 そんな「人間だかなんだかわからないような廃兵」には、彼の帰還を待つ30歳の妻・ 時子がいました。 中尉は目や表情で感情を示す、口に鉛筆をくわえてカタカナを書く以外に、自分の意思を伝えることができない「不自由な肉塊」となり、その姿はまるで 「大きな黄色い芋虫」のようでした。 2人は夫の上官だった 鷲尾老少将の好意に甘えて、少将の邸宅の離れの座敷に無償で住まわせてもらえることになりました。 介護で目覚めた妻の残虐性 鷲尾少将は、会うたびに時子の介護ぶりをほめてくれました。 時子は、始めはそれを誇らしく感じたものの、次第にそれが責め言葉のように感じられるようになっていったのです。 なぜなら、時子は夫の介護を続けるうちに、夫を自分の情欲を満たすために飼っているだけの「けだもの」、または一種の「道具」のようなものとみている自分に気づいたからです。 夫は不自由な体なのに、「食欲」と「情欲」だけは人一倍旺盛な健康体でした。 そして、以前教え込まれた「軍隊の倫理観」(理性)と「敏感な情欲」(本能)が彼の中で矛盾し、それに苦悶しているようにも見えました。 時子はそのことに気づき、この憐れな「物」を勝手気ままにイジメてやろうという弱い者いじめの嗜好を持って、彼をいたわるどころか、情欲のままに迫って物のように扱うようになります。 夫が帰ってきた当初は、四肢の代償として「金鵄勲章」が授けられ、新聞にも武勲が載り、親戚や町内の人々がひっきりなしにお見舞いに訪れました。 しかし、やがて3年も経つと、夫のことなど世間の人々はすっかり忘れ去り、彼ら2人は「世間から切り離されたように、田舎の一軒家でポッツリと生存していた」のでした。 ついに介護虐待に発展か? ある夜、時子は悪夢を見て目が覚めました。 夫が廃人になってからの、いろんなことが思い出されます。 夫が天井の一点を見据えていたりすると、その物思いに耽っている様子がひどく憎々しく思われて、いつもの残虐性が彼女の内に湧き起こってくるのでした。 彼女は自分の激情が抑えられなくなり、湧き上がる兇暴な欲望のまま、夫の上に飛びかかっていきました。 夫は叱責のまなざしで彼女を睨みつけ、刺すような目で彼女を見据えました。 時子は「なんだい、こんな眼」と叫んで、両手を夫の目にあてがいました。 そして、病的な興奮とともにその手に無意識の力を加えたのです。 夫は彼女の下で踊り狂い、その両目から真っ赤な血が噴き出しました。 自分は、夫の純粋さを感じる「物言う両眼」が邪魔だったのだろうか、それとも夫を「ほんとうの生きた屍」にしたかったのだろうか・・・ そんなことを考えながら、時子は医者の家へと走りました。 憐れな「芋虫」の最期 医者の治療が終わり帰った後、時子は静かになった夫の胸をさすって、泣きながら「すみません」と謝り続け、胸元に 「ユルシテ」と幾度も幾度も書きました。 しばらくして、夫の様子がかなり落ち着いてきたころ、時子は、再び胸に 「ユルシテ」と書きましたが、夫は一向に身動きせず表情も変えませんでした。 時子は取り返しのつかぬことをしてしまったとワッと泣き出し、ただ人が見たくて、「世の常の姿を備えた人間」が見たくて、鷲尾少将のいる母屋に走りました。 少将に懺悔し、ともに夫のいる部屋へ戻ると、そこには誰もいませんでした。 そして、時子は夫が寝ていた枕もとの柱に 「ユルス」と書かれているのを見つけます。 時子は、夫が自殺する気なのだと悟りました。 それで、鷲尾家の召使いたちも呼び、皆で夫を探しました。 夫の「ユルス」という言葉には、「私は死ぬ、けれど、お前の行為に立腹してではないのだよ、安心おし」という意味が込められていました。 それがいっそう彼女の胸を痛くしたのです。 もう辺りは、暗くなっていました。 時子と鷲尾少将が庭の「古井戸」に近づくと、何かが這うようなかすかな音が聞こえてきました。 そして、夫が胴体の四隅についたコブのような突起物で、もがくように地面を掻きながら前進しているのを見つけたのです。 それはゆっくり前進していましたが、突然、鎌首がガクンと下がり、からだ全体がずるずると地面の中へ引き入れられるように、見えなくなりました。 そして、地の底から、トボンという鈍い水音が聞こえたのです。 時子は闇夜に一匹の芋虫が枝の先からまっくろな空間へ、ポトリと底知れず落ちていく光景を心の中に描きました。 おわりに 30ページほどの短編なのですが、半端ないキモチワルサを感じる作品ですよ。 文庫の解説に「グロテスク趣味の極限を代表する佳作」とありますが、乱歩の妻はじめ、身近な女性陣から「気持ちが悪い」「いやらしい」「ごはんがいただけなくなる」とさんざんけなされた素晴らしい(?)作品なのでした。 この作品は、左翼から称賛されましたが、乱歩は戦争の悲惨さを伝える反戦の意図はないと言い切っています。 彼は、ただグロテスクな物の中から生まれる芸術性や愛情を表現したかったのではないでしょうか。 これで感想文を書くというのはすごい感じがしますが、反戦ではなく現代の社会問題「介護問題」と結びつけて考えると深くなるでしょう。 介護は「一人っきり」ですると煮詰まってしまい、介護者の精神状態がヤバくなると聞きますよ。 そういえば、娘の担任の女性教師が、この3月をもって介護辞職したそうです。 まだ30代の先生なのですけど。 意外と身近な問題なのかもしれませんね。 江戸川乱歩の短編は、何度も紹介しているこの1冊がおススメ。 全部おススメです! 【関連記事】.

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NHK バリバラ|SHOW

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石原は「世界最終戦が、アジア代表の日本と欧米代表のアメリカの間で行われる」というSF的な歴史観をもち、最終戦に勝利するには「 アメリカ依存の体制を脱却し、経済的に自立するだけの資源や経済力が必要である。 資源の豊富な『満州』、さらにはシベリアを獲得し、自給自足体制を作ることが必要だ」と考えていました。 この考えに基づき、関東軍や陸軍中央の若手将校らをまきこんで、計画し、実行したのです。 陸軍中央は、こうした動きを察知して幹部を派遣しましたが、彼は石原らの行動を黙認します。 柳条湖事件を知った現地外交官(領事)は「平和的交渉」をはかろうとしますが、関東軍に「 すでに統帥権の発動を見ている。 それに口出しするのか」と阻まれました。 かれらにとって「統帥権」とは軍隊の勝手な行動の別名になってしまっているようです。 関東軍の行動こそが天皇の指揮命令権に反する「統帥権の干犯」そのものでした。 明治憲法にすらに反する形で始まった「満州事変」は東北部全土へと広がっていきました。 「不拡大政策」と陸軍 浜口内閣の対中国中立・反軍拡・国際協調路線をひきつぐ若槻内閣は 不拡大方針をとります。 天皇と側近グループもこの方針を支持しました。 ところが、その前にさまざまな力が立ちふさがります。 現地・関東軍は、最初から内閣なんかは無視している確信犯です。 途中でやめる気などはありません。 事件の発生と真相を察知した陸軍大臣や参謀本部長なども一度は不拡大に動きますが、まわりは関東軍の行動を支持する勢力ばかりです。 へたをすればクーデターをおこしかねない状況であり、自分たちがやれないことを代わりになってくれたという思いもあったのでしょう。 しだいに 関東軍の行動を容認するだけでなく、内閣の不拡大方針を批判する立場へと移行していきます。 マスコミの過熱報道と戦争熱の高まり こうしたなか 、「満州」に隣接する朝鮮軍が天皇の許可なしで軍隊を「満州」に投入するという事態が起こりました。 この行動は天皇の命令を明らかに無視した「 統帥権干犯」であり軍法では 死刑に値する行動です。 この時、「これはルール違反だ。 朝鮮軍を元に戻し、司令官をきっちりと処罰すべきだ」という声がでていれば、これ以降の日本の運命は変わったかもしれません。 残念ながら『男子の本懐』とばかりに関東軍の横暴を止めるために命をはる軍人も、政治家もいませんでした。 軍中央はこれも追認、逆に内閣に圧力を加え「 でたものは仕方がない」といわせ、その経費支出を認めさせました。 天皇は朝鮮軍の行動を追認する許可を出し、最後には天皇が「感状」なるものを軍隊に与え「 軍隊は勇敢に戦った」としてほめたたえます。 近年、企業経営で重視されるのが、 コンプライアンス(法令遵守)やコーポレートガバナンス(企業統治)という視点です。 政府の意向を無視して対外出兵を強行しようとした台湾出兵にはじまり、日清戦争での旅順虐殺事件、閔妃殺害事件、関東大震災時の大杉栄殺害などなど、こうしたものを「くさいものにふた」見逃したり、「起こったものは仕方がない」といって 「コンプライアンス」に反する行動を許してきた近代日本の「コーポレートガバナンス」のなさが深く根を下ろしていました。 ルール違反を黙認したり追認したりして、厳しく責任を問うことのない政治のありかた、それを容認する風土、それは明治維新以来の日本の政治のありかた、とくに明治憲法体制のなかではぐくまれました。 それが、関東軍の行動に見られる独断専行を許し、不拡大方針を強く打ち出そうとする事を躊躇させたのです。 満州事変を起こすきっかけを作った石原莞爾自身も、のちに中国戦線で独断で軍を動かした軍人から「あなたが『満州』でやったことをやっただけだ」と反論され、返す言葉がなかったというエピソードも残っています。 命令を無視して行動を起こしても、罰せられるどころか、賞賛されるという常識では考えられないことが、軍隊では当たり前となっていきました。 「勇敢だ」「カッコいい」と思わせたいためにさらなる命令無視をつづける愚かな軍人たちも次々と出現します。 もちろん、テロやクーデタ計画などことあるごとに見せつける軍部や右翼の暴力への恐怖、関東軍の行動を認め軍部の満州侵略を支持する国民の動き、こういったものが、強く「不拡大方針」を打ち出すことを躊躇させました。 さらにいえば、 軍部も若槻や幣原も、程度の違いはあるとはいえ、満州などの日本の権益を中国の民族主義の高まりから守ろうという点では 変わりがなかったといえます。 「 手段は違うが考えは分かる」という思いも心の奥にあったのかもしれません。 日清・日露戦争にはじまった他国を植民地とすることや他民族の土地財産に「特殊権益」を設定するという日本の帝国主義的なありかたが、日本の政治を社会を病んだものにしていました。 日本は皮膚病、内戦は内臓の病 井上準之助大蔵大臣 井上は民政党総裁となるがテロリストに暗殺される。 この間、世界恐慌=昭和恐慌はいっそう深刻化しましていました。 1931年9月、恐慌に耐えかねたイギリスが金本位制を離脱、金本位制がグローバルスタンダードであるという金解禁の根拠が崩れました。 これをみた財閥系の銀行は大幅な円売りドル買いをすすめます。 井上は対抗して大量のドル売りを進め、いっそうの金の流出が進みました。 財閥が金解禁に踏み切った若槻=井上民政党内閣を見捨てたのです。 国民が恐慌で苦しんでいるにもかかわらず「国益」を無視して巨額の利益を得た財閥への不満も高まります。 これは政党政治を嫌い、軍隊中心の政治を実現しようと考える勢力にとって格好の攻撃材料でした。 「 財閥が巨万の利益を得る一方で、人々の生活は恐慌によって破壊され、唯一の希望である日本の生命線である満州進出は政党政治によって妨害されている」と。 民政党内部にも亀裂が生じました。 1931 昭和6)年12月内閣の中で政友会との連立を求める動きが生まれると 若槻は内閣総辞職、元老・西園寺は悩んだ挙句、 政友会総裁犬養毅を総理大臣に指名します。 犬養毅政友会内閣の成立.

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