山里 は 冬 ぞ 寂し さま さり ける 人目 も 草 も かれ ぬ と 思 へ ば。 小倉百人一首:歴史的仮名遣い教室

小倉百人一首・源宗于朝臣

山里 は 冬 ぞ 寂し さま さり ける 人目 も 草 も かれ ぬ と 思 へ ば

「黒=原文」・ 「赤=解説」・ 「青=現代語訳」 作者:源宗于(みなもとのむねゆき) 冬の歌とてよめる 山里は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば ぞ=強調の係助詞、結びは連体形となる。 この和歌では倒置法が使われているので、「まさりける」の「ける」が結びとなり、連体形となっている。 係り結び まさり=ラ行四段動詞「まさる(増さる)」の連体形、増える、強まる ける=詠嘆の助動詞「けり」の連体形、接続は連用形。 係り結び。 いずれもラ行下二。 掛詞は基本的にひらがなで書かれている。 漢字にしてしまうと読み手が一つの意味だけでとらえてしまうから。 例外有り。 離る(かる)=ラ行下二、(時間的に)間を置く。 足が遠くなる。 ぬ=完了の助動詞「ぬ」の終止形、接続は未然形。 「と」の前は句点(。 )と鉤括弧が省略されているため、文末扱いとなり終止形となっている。 山里は(都と違って寂しい場所だが)、特に冬は寂しさがいっそうまさることだよ。 訪れる人もなくなり、草も枯れてしまうと思うと。 掛詞の見つけ方(あくまで参考に、いずれも必ずではありません。

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源むねゆきの短歌で「山里は冬ぞさびしさまさりける 人目も草...

山里 は 冬 ぞ 寂し さま さり ける 人目 も 草 も かれ ぬ と 思 へ ば

三割到達記念、と言えるかどうか微妙ではある、三十首目 有明のつれなく見えし別れより あかつきばかり憂きものはなし ~さっさと訳~ 有明の月が非情に見えたあの別れの時以来、 夜明け前ほど切ない時間は無いよ。 壬生忠岑という歌人の作である。 三十六歌仙の一人として挙げられ、古今和歌集の選者にも抜擢された。 歌人としての評価は非常に高く、後々まで語り継がれている。 が、やはり、下級官僚に甘んじた不遇の人物ともいえる。 取り上げるべき逸話も見当たらないのが少々残念ではある。 唯一、特筆すべきは、この後に四十一番くらいで登場する 「壬生忠見」という人物の父親であるらしいということくらいか。 百人一首には「親子で選ばれている」組み合わせが十八組ある。 藤原公任撰の「三十六人撰」に名前が挙げられる、 いわゆる三十六歌仙にも親子で撰ばれている。 優秀な歌人親子の父親なのである。 そんな歌人の歌を蛇足的に解説してみる。 「有明」とは「夜明け前に白々と残る月」を表す言葉。 それが「つれなく見えた別れ」の瞬間であることから、 「後朝(いわゆる通い婚のソレであったり、夜這いであったり)のあと、立ち去る瞬間」 であることが見える。 その後、「あかつき(夜明け前の時間帯)ほど、切ないものは無い」と言っている。 はてさて、「つれなく」見えたのは「月」だったのか「女性の態度」だったのか・・・ 実はこの歌、自身も編纂に携わった古今和歌集の中では「逢わぬ恋」に分類されている。 つまり、忠峯は「夜這いに行ったが、成功していない」と考えられる。 夜這いに行ってみたが、つれなく追い出されてしまった。 ふと空を見上げると、沈みゆく有明の月がつれなく見えた・・・ それ以来、夜明け前になると切なく苦しくなるのですよ。 そんな切ない、遂げられない恋の情景を思い描かせる。 男性にとっては思わずグッとくる一首ではある。 蛇足を重ね、同じく忠峯の 風吹けば峯にわかるる白雲の たえてつれなき君が心か 同様の「つれない恋人」を詠んだ歌で締めくくろう。 不定期にも程度があるだろ、まったく。 と思いつつ唐突に、美しい二十九首目。 心あてに折らばや折らむ初霜の 置きまどはせる白菊の花 ~美しく訳すのは難しい~ 当てずっぽうに手折るだけ手折ってみようか。 初霜が降り、白い花が咲いたような草葉と 見分けがつきにくくなっている白菊の花を。 ふむ、あまり美しくない。 やはり、詩心が足りない様子。 が、なんとなくイメージをしてみる。 その中にひっそりと咲いている白菊の花。 いたずらに、そっと手折ってみようか。 」 そんな美しい光景を詠んだ一首である。 詠んだのは大河内躬恒。 三十六歌仙の一人に数えられ、貫之・友則とともに古今和歌集を編んだ歌人である。 官位は六位と、目立って出世したわけではないが、 勅撰和歌集に190以上の歌を撰ばれるほど歌人としての評価は高かったようだ。 大和物語にも逸話が見られる。 即興で斯くも美しく、しかも技法を織り交ぜて詠んでやる。 まさに、名歌人の為せる匠の技であろう。 歌も見てみる。 実はこの歌自体には目立った技法と言うものは無い。 わかりづらい語句もほぼ無いと言える。 (だからこそ、美しく訳すのが難しいわけだが。 ) あるとしたら、「心境」を詠み込んだと思われる、 「惑わせる」という語句くらいであろうか。 一つは訳にも採用している「霜の花と白菊の花の区別が付かなくて」惑っている心境。 もう一つは訳には積極的に採用していないが、 「あぁ、もう初霜が降りる時期なんだな。 また冬がやってくるな。 」と惑っている心境。 季節は晩秋、人々が冬支度を始めバタバタしている中で ほんの一瞬、心を和ませてくれる霜の花(及び白菊の花)。 単純ながら、何とも美しい一首だ(と私は思う)。 二十八首目。 パッと見、難しい歌ではなさそうに見える。 山里は冬ぞさびしさまさりける 人目も草もかれぬと思へば ~気を遣って訳す~ 山里というものは、冬こそ寂しさが増さるものだ。 人目も離れ、草木も枯れてしまうと思うと・・ いやはや、覚えやすい、訳しやすい歌だ。 ただし、一点「ぬ」だけは気を遣いたい。 この「ぬ」は完了をあらわす「ぬ」であり、 現代語(?)風に否定の「ぬ」としてしまうと、 歌意が真逆になってしまう。 あとは「かれ」が「人目も離(か)れ」「草も枯れ」の 双方に掛かる、いわゆる掛詞じゃないか? だから、ひらがななんだね。 ということに気が付けば問題なく訳せるだろう。 というわけにもいかないので、人物についてちらり。 源宗于(むねゆき)という人物の作。 光孝天皇の孫にあたる人物だが、臣籍降下し源姓を名乗る。 天皇の直系の孫にあたりながら、官位は正四位下。 同様に、天皇直系の孫でありながら生年不詳。 ただし、和歌の腕前にだけは一定の評価を得ていたらしく、 各種歌合に名を連ねてみたり、三十六歌仙の一人として数えられたりしている。 ちなみに「山里」は、平安貴族的には別荘地や別宅を指す。 避暑や観光のシーズンを超え、冬を迎えると一気に往来もまばらになる。 そんな所に住んでいたのか、季節外れの山里を訪れたのか・・ どちらにしてもその光景は大層さびしかったであろうと想像に易い。 そんな身の上からなのか、撰ばれた歌の偶然なのか、 彼の歌にはどちらかといえば暗い歌が目立つように見える。 大和物語に見える、宇多天皇に自らの処遇を嘆く歌が有名だが、 ここはあえて決して明るくない恋の一首を紹介して、今回は終わっておこう。 よそながら思ひしよりも夏の夜の 見はてぬ夢ぞはかなかりける まさしくも「夢よりも儚き」。 さて、気を取り直して、二十七首目。 どうコメントしたものかわからないので、 さっそく歌を観にいくことにする。 みかの原 わきて流るる いつみ川 いつみきとてか 恋しかるらん ~軽く意訳~ みかの原には、泉川という川が湧き出でて流れるという。 あの方をいつ見たというのであろうか・・こんなにも恋しいなんて。 つまり兼輔氏は、この「泉川」もあの「方」も見たことがないのだ。 見たこともない人を、見たこともない川になぞらえ、激しい恋を歌う。 この時代ならでは・・というところだろうか。 おっと、紹介が遅れてしまった。 作者は、藤原兼輔。 従三位、中納言である。 賀茂川堤に居を構えたところから、堤中納言と呼ばれた。 賀茂川堤といえば、今でも桜の名所として知られる場所。 当時から桜があったとしたら、いわゆる一等地であろう。 と、つらつら書いているということは、 歴史的に興味がある人物ではないということだが(失礼)、 特に記述しておこうと思えば一つである。 氏は三十六歌仙に撰ばれる歌の名手であり、 当時の歌壇の最有力者の一人として名を馳せた。 貫之ら、有力な歌人を邸宅に集め、歌会も催していたらしい。 同時に武官を務めるなど、いわゆる文武両道の人物といわれる。 歌に戻る。 みかの原は、瓶原。 現在の木津川市加茂町の、木津川流域の平地を指す。 一時は京を置かれるなど要所の一つともされていたようだ。 当時、この辺りを流れる木津川の一部を特に「泉川」と呼んだらしい。 この「泉(いつみ)」と「いつ見き」とを掛けているのであろう。 また、「わきて」は「湧く・分く」の掛詞であろうが、あえて省略してみた。 (私の勝手な)解釈にはあまり影響しないので。 さてさて、文法的な解釈も少々。 「見き」の「き」。 これは何やら、過去の直接体験を表す助動詞。 ここに引用の格助詞「とて」、疑問を表す「か」を持ってきて、 「見たというのだろうか?」の意味を成す。 文末「らむ」は、文法的に難しいので詳細は割愛するが、 どうやら推測・推量の助動詞らしい。 なので「なぜ恋しいのだろうか?」と結ぶことができる。 加味し、意訳すると、大意で上記のようにしたいと思うのが人情である。 平安の世、名声や評判・噂だけで恋をする・・なんてことも多かった。 良い女がいると噂を聞き、文を送り、歌を歌い、まだ見ぬあの人に思いを馳せる。 そんな恋心を上手い具合に歌った歌といえる。 この歌に詠まれた相手が誰か。 これは未だにわからない。 誰かに頼まれて歌った歌かもしれない。 はたまた、兼輔の作ではないのかもしれない。 でも、問題は無いのだ。 兼輔の作として伝えられ、純粋な恋の歌として現在にも響く。 そんな名歌なのだから。 でも、蛇足的に解釈を加えたくなるのもまた人情である。 ~蛇足~ みかの原には、泉川という川が湧き出でて流れるという。 あの方をいつ見たというのであろうか・・こんなにも恋しいなんて。 私の思いも「泉」のように湧き、溢れ、あなたへと流れているよ。 ここまで考えて詠んでくれてますよね、兼輔さん。 なんとなく、こんな私も世の中に 気になる事がある時もある。 そんな話。 言ってしまえば、領土の問題。 もちろん、詳しくは知らないのだけれど。 K国における竹島の話然り、 C華人民共和国および民国における尖閣の話もまた然り。 国際法に基づき領有を宣言してきたのだから、 日本領土で間違いないだろう・・と、素人ながら思う。 そもそも、私が子供の頃(1980年くらい)は 幼少を北海道で過ごした事も要因なのかもしれないが、 領土問題と言えば、いやゆる北方領土の問題だった。 曖昧な記憶ではあるが、「北方領土を返せ」と言うポスター等々を 街中などでちょこちょこ見かけた気がする。 内地(道民は本州をこう呼ぶ)に居る限りはあまり聞こえてこないのだが、 北海道の一部ではまだまだ根強い問題として認識されている。 説明の必要も少ないとは思うが、 二次大戦の敗戦で日本の管轄から剥奪され、 旧ソ連の統治を受ける島々である。 「返せよ」と言い出したのは、戦後の混乱からなんとか抜け出し、 高度経済成長期と言われるほど、日本経済が右上を向けるようになった時期である。 米国の後押しを受け、国連にも加盟し、さぁ経済復興だ! と言い出したのが(私の記憶が確かなら)1956年頃。 北方領土問題に関してピリピリしだしたのも同時期のようだ。 経済復興の一手段として、領海拡大のために奪回したい・・ と言う政府の思惑もきっとあったことだろう。 今現在のK国、C国・C民国の立場と言うのはまさにこれ。 それだけの経済力・外交力を身に着けようとしていたのだろう。 その外交力に乏しい諸国が実力行使に出てきている、 あるいは文書を曲解し、挙句には歴史を捏造し、 不法占拠・不法入島してまで手に入れるべく、侵攻してきているのだ。 三国志の時代から魚釣島を航海の目印としてきた。 その事実を記録した国際的な史書があるのだから、 (暗黙の了解的に)国際的に領有を宣言してこなかった。 そうこうしているうちに日本が領有を宣言してしまった。 つまりこの領有宣言は国際法的に無効である。 ・・とはC国の主張(を私が理解した内容)である。 竹島に関しては、ここには書ききれないくらいの話があるので省略する。 日本海名称問題や国名イニシャル「KorC」問題を絡めて考えるとものすごく楽しい。 特に1760年に英国で発刊されたらしい地図の話など、 その迷走っぷりがうかがえて、個人的には抱腹絶倒である。 このくらいにしておこう。 そして諸国お決まりの反日運動である。 今日もまた諸国のどこかで日の丸が燃やされていることだろう。 歴史を知らず、一部有識者(?)の発言に踊らされる市民・・ なんとまぁ虚しいことか。 まぁ、この私もネットで得た知識に踊らされている小市民ではあるのだが。 ただし、こんな市民レベルの論争など、まったく問題ではないのだ。 この「領土問題」における最大の論点とはなんだろう? K国の大統領に上陸された事ではない。 「天皇に謝罪させろ」とか言われた事でもない。 C民国の民間団体に不法入島された事ではない。 過剰な反日運動が繰り返される事でもない。 こうやって、公園で砂場を占拠する子供のような主張・行動に対し、 まともに説教もできない大人のような稚拙な外交力。 日本の外交力・国際的な発言力・影響力がここまで地に堕ちたこと。 これこそが問題なのではないだろうか、と私は思う。 などと戯言を。 国のエライサンが見るはずもない 個人的なちっぽけなブログで 当ても無く叫んでみる練習をしてみた。 本人も忘れていたくらい、節目から時間が経過したが・・ 駄文を連ねる二十六首目。 をぐら山峰のもみぢ葉こころあらば 今ひとたびのみゆき待たなむ ~訳しておこう~ 小倉山の峰を彩る紅葉よ、 もしお前に心と言うものがあるのならば、 もう一度行幸があるまで散らずに待っていておくれ。 藤原忠平、 諡を貞信公と言う人の歌だ。 言ってしまえば、ごくわかりやすい歌であるので、 まずは人物に触れておこうか。 この人物、16歳の時に官位を叙せられ、昇殿を許される。 時の天皇、宇多天皇。 後に上皇・法皇となる人物である。 18歳くらいの時、宇陀天皇が譲位、上皇となり、醍醐天皇が即位する。 忠平はこの醍醐の下で左大臣まで出世を重ねていく。 忠平50歳を過ぎた頃、醍醐が病に倒れ、譲位する。 継いだのは朱雀天皇。 この時、朱雀は8歳。 実に若い天皇であり、政治などさっぱりわからない。 そこで忠平に白羽の矢が立つ。 まんまと摂政の座についた。 これはどうやら、醍醐が病の床で朱雀に遺言したらしい。 忠平、醍醐さんに相当気に入られていたらしい。 さてこの後、朱雀の元服に合わせて摂政を辞する。 が、朱雀(の周りの人々)のたっての願いで引き続き関白を任じられる。 関白職は次代村上天皇の代にも引き続き任じられ、 病で倒れ、甍するまでその職に就いていたらしい。 甍後、正一位を追贈、偵信公の諡号を贈られる。 こんな人物である。 出世の影には宇多・醍醐両天皇が絡んでいる。 お偉いさんに気に入られれば出世が早い。 この一首は、その辺の事情が見て取れる。 拾遺集から撰られたこの歌には、こんな詞書が添えられている。 さてここで、歌中に見える「みゆき」についても触れておかねば後味が悪い。 この「みゆき」、漢字では「行幸・御幸」と書く。 通例、天皇のお出かけに「行幸」、上皇・法皇などなどに「御幸」を使うらしい。 だが、どちらも「みゆき」と読む。 歌中に「今ひとたびのみゆき」と読み込むことで、 「次は天皇の行幸があるまで」 「もう一度、上皇の御幸があるまで」 この二つを見事に匂わせている。 これには上皇も喜んだに違いない。 出来る男は一味違う、と言ったところか。 単純に見える歌でも、背景を考えるとなかなか深い。 そんな一首であることは間違いなさそうである。 余談では有るが、私が育った北海道では、下句カルタが主流である。 通常、下句を読み上げ、下句の札を取る。 いわゆる、五七五七七 の七七しか読まない。 しかも、七で一度切る。 切って、札が取られるのを待つ。 そんな遊び方をしていた。 この遊び方で一番困るのはこの「今ひとたびの」であった。 56番歌、和泉式部の歌、 「あらざらむこの世のほかの思ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな」 と言う歌と、「今ひとたびの」が一字一句同一なのである。 無論、上句から読んでもらえれば区別も付くのだが、 如何せん、下句からしか読まない。 競技の際は本当に賭けの二首だった。 なぜか「和泉式部は外したくない」と拘っていたので・・・ まぁ、この辺りは無事に56番まで辿り着けたら語るとしようか。 先日、一寸法師の原文を読み下してみた。 お読み下さった方はおわかりと思うが、 現在一般に知られる昔話「一寸法師」とは なんとなく違う一面が垣間見られる。 小さく生まれ、鬼退治をし、金銀財宝を手にする いわゆる勧善懲悪物。 「桃太郎」に通じるヒーローではある。 一部、ヒーローに似つかわしくない場面を 意図的に脚色した結果なのだろう。 この手の物語の原文を読むに当たって、 具体的な地名や人物を読み取るのも また面白味の一つである。 地名に関して、蛇足してみよう。 まずは一寸法師の生誕地について 「津の国 難波の里」と紹介される。 津の国とは、摂津国。 現在の大坂中北部及び隣接する兵庫県の一部。 北摂と呼ばれる地域に置かれた国の事。 大阪市の一部も含まれる。 では、難波の里とはどの辺りか。 これは恐らく、聖武天皇の頃に短期間だけ都を置かれた 難波京の近辺だろうと思われる。 いわゆる上町台地の突端部、 大阪城の辺りと説明するとわかりやすいか。 難波津、難波の浦と呼ばれる港湾部もこの辺りにある。 次に出てくる地名が「住吉」。 言わずもがな、住吉大社の事だろう。 子宝を祈願するのだから、神社なのは間違いない。 場所は現在の大阪市住吉区。 上町台地的な考えでいくと、 半島の南西部に当たる。 難波京からは片道約9km。 祈願に歩いたようだ。 難波の浦から茶碗の船にのって漕ぎ出す歌を詠む。 出発地点は難波の浦で確定だ。 河内湖と呼ばれる湖から淀川を上り、京を目指す。 船は茶碗、櫂は箸だ。 当時の淀川は京へ向かう水路の要所。 船の往来も多かったと思われる。 そこを茶碗が川の流れに逆らって上っていく。 なかなか無茶な話ではある。 京に到着。 物語では「鳥羽の津」と表現される。 現在の地図を参考にすると、 淀川から桂川、あるいは鴨川に分岐して、 京都市南区鳥羽に到着する。 ここの船着き場に落ち着いたのだろう。 京域までは目と鼻の先である。 ところで今回、原文を訳すにあたり、 先人たちのサイトをいくつか参照させていただいた。 「鳥羽の津」の解釈はいくつかあったのだが、 その中で際立った物を紹介しよう。 批判であるので、名指しは避ける。 そのサイトにおける「鳥羽の津」とは、 鳥羽藩の津であると言う。 例えば、津が津市を指すとして考えたとしても、 津市は津藩に入る。 鳥羽藩は三重県南部沿岸地域、 津藩は中部沿岸であり、 混同してはいけない。 第一、大阪から京を目指すのに、 そんな遠回りをして、さらに陸路を行くルートを選ぶか。 それならば、初めから陸路を選べば良いのだ。 もちろん、その方が早い。 この案は成り立たないものと思われる。 到着した一寸法師は「三条四条」を見て回り、 「五条」の邸宅に忍び込む。 現在も地名として残る「三条、四条、五条」のことだろう。 内裏からそう遠くはない、人の往来も多かっただろう。 いなか育ちの一寸法師は、その賑わいに言葉も出なかったようだ。 話は進んで、娘と二人で難波の里を目指す。 出発点は、鳥羽の津だ。 繰り返すが、三重県は関係ない。 今度は娘もいるのでまともな船。 と言っても、船頭は話には出てこない。 娘との二人きりの船旅だったのか。 風に煽られ、「きようがる島」に漂着する。 興がある・・一風変わった島、と訳しておこうか。 船頭がいればなんとでもなりそうだが、 風向きも悪く、娘の細腕ではどうすることも出来ない。 船頭は存在しないと言い切れる所以である。 さて、この「きようがる島」。 これはどこにあったのだろう。 これが謎だ。 個人的には、現在の高槻市北部辺りじゃないかな、 と思っていたりいなかったりする。 根拠は乏しい。 資料も無い。 史跡も無い。 京、あるいは難波京跡の近辺に鬼が入り込める要素は少ない。 それが孤島であっても、噂が立てば討伐されたであろう。 鬼・・だが、朝廷の手にかからない存在。 そんな存在があったのは言わずもがなであろう。 これ以上は言えない。 そんなデリケートな話題だし。 以上、地名に焦点をおいた蛇足。 痕跡を探しに歩いて見たいと、 少しだけ思う。 そんな時間を私にください。 なんとか四分の一到達。 記念して「こどもには聞かせられない昔話シリーズ」的な企画を。 要するに単なる原文読み下し及び蛇足ですけど。 いや、やめろと言われても止まらないです。 いつまで続くかなんて私にもわかりません。 第一段は「一寸法師」で参ります。 では、はじまりはじまり・・ ~以下、本文~ 昔・・と言っても、そんなに古い事ではないが・・ 津ノ国、難波の里にじじばばが住んでいた。 ばばが四十になっても子に恵まれず、 住吉神社へ子供が出来ますようにとお願いに行った。 大明神も憐れに思われたのだろう、 ばばが四十一歳の時、ようやく子供ができたようす。 じじも大いに喜んだ。 やがて十ヶ月が経ち、かわいい男子が生まれた。 しかしこの子供、身長が一寸(約3cm)ほどしかない。 それでじじばばは、一寸法師と名付けた。 やがて年月が経ち、十二・三歳まで育てたが、一向に大きくならない。 じじばばは、 「これはやはり只者ではない。 まるで化け物のようだ。 いったい何の罪があって 住吉さんはこんな子供を授けられたのだろう。 まったく驚いたものだ。 不憫な子だ。 」 とつくづく思い嘆いた。 じじばばは、 「あの一寸法師を何処かへ捨ててきてしまおうか。 」 と話し合った。 それを聞いた一寸法師は 「親にこのように思われるのはくやしいことだ。 捨てられるくらいなら、何処かへ行ってしまおう。 」 と思い立った。 「そうだ。 刀くらい持っていかねば。 」 と思い、ばばに針を一本もらった。 麦わらで鞘を作り、京を目指そうと思ったが、当然、船が必要だ。 そこで今度は茶碗と箸をもらい、 名残惜しく思いながら、京へと旅立っていった。 こうして、京の鳥羽の船着き場についた一寸法師、 そこら辺に茶碗の船を乗り捨てて京の街を見て回る。 四条や五条の光景は物珍しく、言葉にもできない。 やがて、三条の宰相殿と言う人の屋敷についた。 一寸法師の「ごめんください。 」の声に気づいた宰相殿、 奇妙な声がするぞと思い、縁側に出てみるが、誰も見えない。 一寸法師は、踏みつけられては大変と、下駄の下に潜り、繰り返す。 「ごめんください。 」 宰相殿は 「これは不思議なこともあるものだ。 人の姿は見えないのに、奇妙な声が聞こえるぞ。 どれ、庭に降りて探してみよう。 」 と言って、下駄を履こうとした。 慌てて一寸法師は 「そこのお方、どうか踏み潰さないでくださいまし。 」 と下駄の下から声をかける。 宰相殿が不思議に思ってみると、 下駄の下に珍しい奇妙な者がいるではないか。 宰相殿はそれを見て、 「なんて面白い奴だ。 」 と言って大笑いした。 こうして年月が経ち、一寸法師は十六歳になった。 身長はもとのままだが。 宰相殿には十三歳になる娘がいた。 見目の美しさに、一寸法師は初めて見たときから気に入っていた。 どうにかして自分の妻にできないものかと考え、 ある日、良い事を思い付く。 神棚の米を取り、茶袋に入れ、 娘が寝入っているところに忍び寄り、 口許に貼り付けて、空になった茶袋を持って泣き出した。 宰相殿がどうしたのかと尋ねたところ、 「娘さんが、私が集めておいた米を奪い取り、食ってしまったのです。 」 と訴える一寸法師。 宰相殿が怒って見てみると、 娘の口の回りには米がついている。 「これは嘘ではない。 このような娘を都に置いておくわけにはいかない。 打ち殺してやれ。 」 と一寸法師に言う。 「まぁまぁ、取られたのは私のものですから、 ここは私にお任せください。 」 と、内心で大喜びしつつ宥める。 娘はただ夢を見ている風で呆れ返っている。 一寸法師は「さあさあ」と娘を促し、 娘を捨てに行く風で家から出そうとする。 一寸法師の前に立たされている娘を 哀れに思った宰相殿はなんとか引き留めようとするが、 継母は特に引き留める様子もない。 女房たちも付き添おうとしない。 娘はあまりの仕打ちに驚き、 「こうなったらどこへでも参りましょう。 どうせなら、難波の裏まで行きましょう。 」 と言って、鳥羽の船着き場から船に乗った。 折悪く強風が吹き、奇妙な島に打ち上げられてしまった。 船から立ち上がって見てみるが、人が住んでいる気配もない。 風向きが悪く、島に向かって吹き上げている。 どうしようかと悩んでみたが、どうすることもできない。 船から降り、一寸法師があちこち見て回っていると、 どこからともなく二匹の鬼が現れた。 一匹は手に打出の小槌を持っている。 一匹が「あのガキを食い殺して、女をうばっちまおうぜ。 」 と言いつつ一寸法師を飲み込もうとするが、 一寸法師は鬼の目から逃げ出してくる。 「こいつは曲者だ。 口に入れたら目から出てきやがる。 」 鬼に食われては目から逃げ出し飛び回る一寸法師に、 鬼もすっかり恐れおののき、 「こいつは化け物だ。 地獄で戦が起こった感じだ。 これは逃げるしかない。 」 と言って、小槌も杖も、何もかも投げ捨てて、 極楽浄土の北西の暗いところまで逃げていった。 これを見た一寸法師は、まず打出の小槌を取り、 「我が背よ、伸びろ。 」 と言って激しく打ち付けた。 するとみるみる大きくなり、人並みになった。 旅に鬼退治にと疲れていたので、飯を打ち出そうとしたところ、 見るからに美味しそうな飯がどこからともなく現れ、 思いがけない幸せな一時になった。 そのあと、金銀財宝を打ち出し、娘と共に京に戻る。 五条辺りに宿を取り、十日くらい過ごしたが、 この話はあっという間に噂になった。 噂は内裏にまで届き、一寸法師は内裏に召されることになった。 こうして参内し、天皇に謁見したところ、 「本当に立派な若者じゃ。 いかにも誠実そうでおじゃる。 」 と、先祖をお尋ねになる。 「父は、堀川中納言と言う讒言によって流刑になった者が 流刑先で産んだ子です。 母は、伏見の少々の子で、幼いときに父母と死に別れたようです。 」 このように卑しい身分ではないとされ、 殿上に召され、めでたく堀川の少将の役職を承けた。 父母を京に呼び、尋常ではないほど手厚く世話をした。 いつしか、一寸法師は中納言にまで出世した。 もともと心身共に人より優れていたので、 一族に対する信頼も厚かったのだろう。 この話は宰相殿のもとまで届き、宰相殿も大いに喜んだと言う。 その後、三人の子をもうけ、めでたく栄えたと言う。 住吉さんに願を掛け、末代まで繁栄する。 この世にこれ以上にありがたい話はないと、 世間では語り継がれている。 以上、素人訳の口語版「一寸法師」。 昔話とは微妙に違うのがおわかり頂けるかと。 実は捨てられるのがイヤで逃げるように京に上ってみたり、 ズル賢く娘を手に入れてみたり・・ 後ろの方に「心身共に人より優れていた」と言う行がありますが、 「心」はどうなのかしら。 家系の行にも軽く疑問符が飛び交いませんか。 そして、謀略により娘を奪われて、 婿が中納言になっても出世できていない宰相殿・・ 哀しく見えてしまうのは私だけでしょうか。 子供向け童話の意外な原文。 まだまだ有りそうな予感がしますね。 二十五首目である。 四分の一に到達、節目の一首だ。 名にしおはば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな ~まだ訳さない~ 三条右大臣、藤原定方の一首。 醍醐天皇の叔父にあたり、官位は従二位、右大臣。 三条に屋敷を構えた事から、三条右大臣と呼ばれる。 醍醐天皇時代の和歌教室的なものの後援者と言える人物だ。 それくらい和歌に愛好し、歌人としても評価が高かったと言える。 さて、歌を見る。 後撰和歌集から撰られたこの歌、 掛詞を巧みに使った技巧派な一首だ。 一句ずつ読んでいく。 名前に持つ、と言うような感じ。 「逢坂山の」 出ました、掛詞。 「さねかづら」 さねかづらは蔓植物の名前。 実葛と書き、さねかずらと読む。 その字のごとく、一夜を共にする・・ 要するに、逢瀬を導いている。 上句では、「逢坂山のさねかづら」をモチーフとして、 「逢う」「共寝」のキーワードを名に関している、と詠む。 では、下句。 「人に知られで」 印象通り、他人にしられないように、と読んで良さそうだ。 家に来る手段があれば良いのに、となるが この歌は男性が詠んだ歌。 逢いに行く手段が有れば良いのに、と訳すのが自然に見える。 よって、 ~踏まえて意訳してみる~ 「逢う」と名に付く「逢坂山」に生える、 その名に「共寝」を持つ「実葛(さねかずら)」。 その蔓を手繰り寄せて簡単に実を引き寄せるように、 気楽にあなたに逢いに行く手段があったら良いのになぁ。 こんな感じであろうか。 掛詞、縁語と言った技法を駆使し、 逢いたいのに自由が利かない自分の立場を恨む。 そんな心情を見事に詠んだ素敵な一首だ。 しかし、この掛詞。 いつも思うのだが、要するに駄洒落。 同じような駄洒落なのに、親父ギャグとはこうも響きが違う。 風流な駄洒落を考えよう・・ と、親父ギャグ愛好家としては思うところである。 参加していたりします。 さて、二十四首目。 このたびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに ~訳すかな~ 今回の旅にあたって、慌ただしさから 御幣の準備もままなりませんでした。 この錦織のような手向山の紅葉を 神の御心のまま、お受け取りください。 菅家、菅原道真の一首。 言わずと知れた学問の神、北野天満宮天神である。 人物を紹介し出すと物凄く長くなる。 なので、右大臣になってからの話だけをまとめてみる。 右大臣になった道真、 時の醍醐天皇を引き擦り下ろし、 都合良く親王を擁立しようと企てたとして、 太宰府に左遷されてしまう。 京を離れるときに詠んだ こちふかば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春をわするな の歌が有名である。 高齢であった道真は、その2年後に没し、 現在の太宰府天満宮に埋葬される。 そして、死後。 京では主要人物の急死が相次ぐ。 とどめにくるのが雷雨である。 干ばつが続いていたため、 雨乞いの是非を問う会議中だった内裏に突然の落雷。 多くの死傷者を出した。 くわばらくわばら。 これらすべて道真の祟りであると信じられた。 怨霊と化した道真を鎮めるべく、 赦免、昇格するとともに、流刑を解除。 北野天満宮天神の神号を授与し祀ったところ、 異変がおさまった・・と言われる。 生前の博識より、学問の神と呼ばれるようになった。 いわゆる、天神さまの誕生である。 歌自体は技法的にも単語的にも これと言って特筆すべき事も無かったりする。 なので、百人一首とはまるで関係ないのだが、 道真にまつわる伝説をひとつ紹介して、今回を締めよう。 太宰府に左遷される事になった道真公。 住み慣れた屋敷を後にする際、 庭に植わっていた梅の木に目を留める。 そこで前述の一首を詠む。 901年初春の頃である。 太宰府についた道真公は、 数日経ったある朝、庭の異変に気づく。 庭に見慣れた梅の木が、見事に花を咲かせているのである。 京の屋敷に植わっていた梅の木が、 道真公が詠んだ一首に応え、 一夜の内に京から太宰府へ 主人を慕って飛んできたのだった。 飛梅伝説と言われるこの話。 梅は今でも太宰府天満宮で見事に花を咲かせている。 一度、見に行きたいものだ。 何気に続けています。

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パロディ百人一首:寂しい冬は仲よく

山里 は 冬 ぞ 寂し さま さり ける 人目 も 草 も かれ ぬ と 思 へ ば

「黒=原文」・ 「赤=解説」・ 「青=現代語訳」 作者:源宗于(みなもとのむねゆき) 冬の歌とてよめる 山里は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば ぞ=強調の係助詞、結びは連体形となる。 この和歌では倒置法が使われているので、「まさりける」の「ける」が結びとなり、連体形となっている。 係り結び まさり=ラ行四段動詞「まさる(増さる)」の連体形、増える、強まる ける=詠嘆の助動詞「けり」の連体形、接続は連用形。 係り結び。 いずれもラ行下二。 掛詞は基本的にひらがなで書かれている。 漢字にしてしまうと読み手が一つの意味だけでとらえてしまうから。 例外有り。 離る(かる)=ラ行下二、(時間的に)間を置く。 足が遠くなる。 ぬ=完了の助動詞「ぬ」の終止形、接続は未然形。 「と」の前は句点(。 )と鉤括弧が省略されているため、文末扱いとなり終止形となっている。 山里は(都と違って寂しい場所だが)、特に冬は寂しさがいっそうまさることだよ。 訪れる人もなくなり、草も枯れてしまうと思うと。 掛詞の見つけ方(あくまで参考に、いずれも必ずではありません。

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