ベルリン の 壁 崩壊。 ベルリンの壁~建設から崩壊までドイツ分裂をわかりやすく解説~ [ベルリン] All About

ベルリンの壁崩壊から30年、今も続く心の東西分断:日経ビジネス電子版

ベルリン の 壁 崩壊

11月9日は、ベルリンの壁崩壊の記念日である。 1989年の出来事なので、今年は30週年である。 パリでもあちこちでイベントが開かれている。 30年経った今、東西ドイツはどのように違うのか、されていた。 大変面白いので、ここで6つの地図を紹介しながら、欧州に刻まれて残る共産主義の遺産を見ていきたいと思う。 1,宗教をもたない人の割合 旧東ドイツ(ドイツ民主共和国)は無神論的な共産主義体制だった。 30年経ったいまでも、この遺産は特徴となっている。 ル・モンドの図表より。 日本語は筆者が挿入。 ドイツ中程に位置するテューリンゲン州は、宗教を持たない人の割合が最も高い。 州都ワイマールで94. 1%である。 次に高いのは、ベルリンの西にあるブランデンブルク州の都市、ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェルで、88. 1%である。 西ドイツとの違いは明らかだ。 ただし、西ドイツの人が今でも毎週末(か毎日)教会に通い、食事の前にはお祈りを捧げるような信心深い人たちかというと、違うだろう。 彼らは私たち日本人と同じ西側という意味で、似ているはずである。 このような設問にどう答えるか。 そういうところに、人々の意識と文化の差異が表れるのだと思う。 この「無神論」という人間を変えた文化・社会思想は、政治活動や人々の意識に大きな影響を与えている。 2,ラジカルな左派(極左)の割合 影響の一つは、政党に表れている。 ラジカルな左派政党、つまり極左の割合である。 このことは、2017年のドイツ連邦選挙における、 左翼党(リンケ)の投票割合ではかられている。 左翼党とは、 二つの党が合併して2007年に生まれた党である。 一つは、 旧東ドイツの独裁政党だった「ドイツ社会主義統一党」の後継政党である「左翼党-民主社会党」である。 この中には今でも、少数の一派であるが、スターリン主義者やトロツキー主義者がいる。 欧州大陸では別に珍しくもないが。 もう一つは、2005年に 「ドイツ社会民主党」(現在第2政党・中道左派)から分離したWASP=「労働と社会正義・選挙のオルターナティブ」である。 ここでも旧東ドイツの遺産が強く見られる。 2017年の連邦選挙では、東側ではこの極左政党が平均16%の得票率を超えていた。 日本では欧州の極右ばかり話していて、極左の動向を語ることがほとんどない。 知らないものは見えないし、日本が右傾化しているから、そういう目で外を見るためだろう。 左翼党の主な主張は、緊張緩和のためにNATOをロシアも含めた集団安全機構にかえること。 移民危機では排外主義に反対、そして民間と公的な医療制度の1本化などを訴えている。 「NATOを脱退してロシアと協力」とは言っていない。 これは2党をどう統一するかで大きな議論となった「赤い停止線」(=超えてはならない一線:rote Haltelinien)に触れるのだ。 他の左派政党との連携のためもある。 プーチン大統領のファンなのではなく、ソ連にコントロールされた歴史と、より地理的にロシアに近いという、地域に刻まれた 「集団の記憶」を見るべきなのだろう。 移民危機で、 排外主義に反対したのは立派である。 そういう政党が16%超えというのは、なかなかやるではないか。 これができなかった欧州の左派政党は、看板を汚して存在理由が根底から疑われてしまった。 医療の問題は深刻だ。 どこまで民間に任せるか、どこまで国の担当か。 医療は、国にとっても個人にとっても、大きな経済的負担となるために、民主主義国家で 「平等」のレベルが最も際立った形で顕在化する。 フランスでも今問題になっている。 さて、欧州の観点から注意したいことがある。 この政党は「極左」と呼んでいいものだが、ことだ。 筆者はどうしてもフランスやイタリア、スペイン、ギリシャなどを見てしまうのだが、これらはむしろラテンアメリカの影響が流入している。 しかし旧東欧の極左はソ連の影響を強く残していて、かなり様相が異なる。 どちらも元は共産主義なのだが、発展の仕方が違うのだ。 とはいっても、2017年の選挙では、極右「ドイツのための選択」党が大幅に伸びて、東側で平均22%と左翼党を上回り、これまでの最高得票率になってしまった。 3,外国人の割合 それでは、東ドイツには移民が多いのか。 そんなことはない。 外国人の割合が低いのも東ドイツの遺産と言える。 開放的とは言えなかった土壌や、移民は東側を通り過ぎて、豊かな西側に行ってしまうというのが理由だろう。 外国人率が低いのに、前述のように極右「ドイツのための選択」党が躍進したというのはどういう意味だろうか。 ドレスデンでは、11月頭に「ネオナチに対する非常事態宣言」すら、市議会で採択されたという。 でも 地図を見ると、外国人なんて東側ではとても少ないではないか。 「移民が嫌だから極右・ネオナチ」と一言で済ませる危険性がここにある。 移民流入に対する人々のショックというのは、数字だけでははかれない相対的なものだと理解する必要がありそうだ。 内陸部では、歴史的に「外国人」と言えば、言葉や民族は違っても白人であり、宗派は異なってもキリスト教徒だった(例外だったのはユダヤ人くらいだ)。 今やって来ているのは、肌の色も習慣も文化も異なり、民主主義度も違う、しかもイスラム教徒である。 紀元前から「文明の衝突」を繰り返している地中海人とは異なり、彼らにとっては、地中海人なら(今どきは)一笑に付すような「少数」の流入にしか過ぎなくても、ショックは大きかったのだろうと思う。 それに、2015年の移民危機の前からネオナチも極右もいた。 でも今のように大きめの勢力ではなかった。 東西の経済格差だけが原因なら、以前からもっと大きな勢力だったはずだ。 社会は複雑にからみあっている。 極右と極左がともに力をもつ東ドイツーー極端思想の両者は何だか似てくるものだ。 でも、やはり違う。 筆者は、 東ドイツの人々は、どのような理由で極右を選んで極左を選ばないのか、逆に極左を選んで極右を選ばないのか、それを知りたい。 フランスやラテン地域ならある程度わかるのだが・・・。 もっと昔の歴史をひもといて、この問いを考えるなら、このあたりの中には 元々はざまの、微妙な地域を含んでいるというのはある。 共産主義の「人間の平等」「財産の国有化」という思想は、欧州では主に二つの層・社会に受け入れられた。 一つは、産業革命で工業化が進み、発展した地域。 その中で、労働者は非人間的な扱いを受けており、共産主義を心棒した。 日本も同じで、「ああ野麦峠」や「女工哀史」、炭鉱労働者の話が伝えられているので、わかりやすいだろう。 チャップリンの「モダン・タイムズ」という映画でも描かれている。 ただし、国そのものは工業化が進んで豊かで、遅れた外国を支配するような力をもっていた(日本もそうだ)。 資本やブルジョワ層(ニューリッチ)が発達していたので、問題は富の分配だった。 このような地域が冷戦時代に「西側」となる。 もう一つは、もっと東で、当時は工業が発達しなかった寒い地域。 農業が国の主な産業であり、ついこの前まで農民は「農奴」の扱いを受けていたような遅れた社会。 ロシアはこれに相当する。 問題は、その間、はざまの地域なのだ。 東欧と呼ばれる地域で、産業革命に関わったのはチェコくらいではないだろうか。 その他の地域は当時、ロシアのように社会は遅れてはいないが、ロシアほど国(主に軍隊)として強くない、といって産業革命が起こった西側ほど進んでいるわけではない・・・。 どうもこの「二つの間の、はざまの微妙な地域」という歴史と、極右・ネオナチの台頭には、関連性があるのではないかと筆者は思っている。 極左も根強く、無神論者が多い地域なので、独特の政治風土が生まれている感じがするのだ。 (ネオナチの危険が高まるドレスデンに関して言えば、第2次大戦末に「ナチスへの報復・復讐」と言われる、連合国による徹底的な爆撃があった。 都市が壊滅状態になるほどに。 何か消化できない、地域に巣食う不信があるのかもしれない)。 4,若者の割合 西側の若者人口は多い。 これは移民の大量流入が背景にある。 2016年に43年ぶり高水準を記録した。 2016年のドイツの出生数は、前年比7. 0%の激増となった。 このうちドイツ人女性の出生数は約3. 0%増だったのに対し、非ドイツ人女性の出生数は25%も増加した。 2015~16年に移民の流入が急増したことで「伝統的に子どもを多く産む傾向の強い国々出身の女性の人数が増えた」と連邦統計局は指摘している。 ドイツにはこの2年間にシリアやイラクといった中東の紛争地域から100万人以上が流入したと。 一方で、ベルリンの壁崩壊で、旧東ドイツの人口動態は2つの大きな混乱に見舞われたという。 まず、 若者が西に行ってしまったこと。 30年で190万人にものぼる。 次に、 2000年代半ばまで出生率が急落したこと。 女性一人あたりの子供の数は、5年間で1. 58から0. 78に激減した。 そして、その後ゆっくりと上昇した。 この影響は今日でも見られ、人口の平均年齢は西よりも東の方が高い。 平均年齢は東では46ー48歳、西では40ー44歳だ。 今では東側の出生率は回復しており、東の5つの州の出生率は、西側の出生率を上回った(2017年の1. 57に対して女性一人あたり1. 61人になった)。 日本と同じ少子化で悩んでいたドイツだが、移民流入を機に両者の状況は激的に異なった。 5,失業率 失業問題を解決することは、統一の主要な目標の1つだった。 しかし、30年かかっても、東は西に追いついていない。 失業率は低下しているものの、2019年の東5州では依然として平均6. 9%で、全国平均の3. 1%の2倍だという。 それでも欧州の南の国々よりは相当マシだ。 今フランスは8. 5%と言って喜んでいる。 10%になってしまうと「これはマズイ」という危機感が社会に募る(イタリアは9. 9%、スペインは14. 2%)。 一昔前に「バトル・ロワイアル」という日本映画があった。 この「失業率」のところで、フランスでは館内に笑いが漏れたという。 「そうか、うちの国って壊れる寸前なんだ・・・」と。 他の南の国々でも苦笑していたことだろう。 南の国々では、特に若者の失業率が深刻で、4人に1人(以上のことも多し)が常態となっている。 外から見ると、東西格差はあるものの、やはりドイツは豊かな国だと思う。 6,公共セクターのアパート住宅 東ドイツ時代、国家は私有財産のアパートというものを認めなかった。 統一に伴い、国の財産や会社を民営化する政策のために、Treuhandと呼ばれる機関が、かなりの住宅用不動産を売った。 しかし今でも、当時からの住宅が一部で維持されている。 全住宅に対する公共住宅の割合は、東ドイツでは高い。 公共住宅が並ぶ景色は、一種独特だ。 東ドイツには、ソ連時代の風景が残っている。 フランスにもパリの郊外には、そういう地域が多い。 公共住宅を増やすことには「ソビエト化」と呼ぶ表現がフランス語にあり、そういう地域では様々な物のデザインまでソ連っぽい感じになっている。 ただしフランスの場合は、所得の低い人のために建てられるのであり、住人は圧倒的に移民系が多い。 建物の風景を見ると無機質な東側の風景に似ていて、人を見るとアフリカや中東の南から来ている人が多い。 一体どこの国にいるのかわからなくなるような、そんな光景が広がる。 欧州に根を張った、一つの文化、一つのスタイルと言えるだろう。 ベルリンの壁崩壊の日と今 私はその日、記念すべき瞬間のテレビの生中継を覚えている。 当時の私が冷戦というものがわかっていたとはとても思えないが、世界中が歴史の転換だと興奮している様子は記憶に焼き付いた。 それが今、欧州研究者になることに繋がったのかもしれないと、漠然と思う。 あれから30年。 ここまで欧州連合(EU)が発展し、さらにイギリスが脱退しようとしている現実を、誰も予測できなかった。 EUのおかげで欧州内に壁はなくなった。 「二度と壁をつくりたくない」というヨーロッパ人の願いが、EUをつくったのだ。 つくづく思う、欧州もEUも、左派思想を理解しないと理解できないと。 この地は、平等を求めて王政を倒したフランス革命から、革命が欧州大陸中に広がり、そこから共産主義という一つの枝が生まれた。 今は更に新しい枝として、環境主義が生まれている地域なのだ。 イギリスは、欧州の一員としてこれらの影響を受けてはいるが、海が大陸と大きな隔てをつくっている。 ブレグジットは島の住民だから起こったのであり、壁の痛みを、大陸という地平線にある人間の平等への希求を、閉じたくても閉じられない大地を、イギリス人は結局はよくわからない幸せな人々なのかもしれないと思う。 そう、だから日本人も似ていて、海に守られている幸せな人々なのだろうと思う。 日本人がEUを理解しにくいのは、大陸が理解しにくいこととリンクしているのだろう。 そして、同じように島の住人であるイギリス人のEUに対する言い分を、そのまま輸入しすぎてしまったせいだと思う。 そして今、壁はEUの周りにできるかもしれないのが、現代である。 南アフリカのアパルトヘイトも同じで、「二度と壁をつくりたくない」というのは、人間の願いではなかったのか。 人権のためではなかったのか。 この大きな問いに、これから欧州の人々は、そして私達は、どう答えていくのだろうか。

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ベルリンの壁の歴史をわかりやすく説明します。なぜ作られたのか。なぜ崩壊したのか。

ベルリン の 壁 崩壊

1961年、東西冷戦の時代、東ドイツの中にあった西ベルリンの領地を囲み、ソ連と東ドイツが築きました。 西ベルリンを取り囲む総延長155キロメートルにわたる壁が建設され、それまで自由におこなうことができた東西ベルリン間の交通は遮断され、多くの人々が一夜にして家族や友人たちと引き裂かれることになったのです。 その後1989年に崩壊するまでの間に、数度作り替えられましたが、最終的には高密度の鉄筋コンクリートによる頑丈なものとなります。 また壁は二重に作られており、壁と壁の間は数十メートルの無人地帯。 アラーム付きの金網やパトロール用の道路、そして多くの監視塔が作られました。 物理的にも精神的にも越えがたい、高い壁となったのです。 しかし、それでも、この壁を越えて西側に逃れようとする者は後を絶ちませんでした。 正式な記録は残っていないものの、その人数は6万人以上といわれています。 その多くは国境警備隊に捕まるか、射殺されるか、無人地帯にある運河などで溺死するか、壁から落下して死亡。 壁を越えることに成功したのは5000人ほどしかいないといわれています。 また未遂で捕まり有罪判決を受けた場合には、平均禁固4年の刑を科されました。 さらに逃亡を手助けしようとした場合にも重い刑罰が与えられ、終身懲役刑となる場合もありました。 1939年に始まり、ヨーロッパ全土を戦火に包んだ第二次世界大戦の欧州戦線。 1945年5月、ドイツの降伏により終了します。 7月には、戦勝国の代表であるアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の代表がベルリンの郊外ポツダムに集まり、戦後処理を話し合いました。 この「ポツダム会談」の結果、ドイツは4ヶ国で分割統治されることとなり、首都のベルリンもアメリカ・イギリス・フランスの管理する「西ベルリン」とソ連が管理する「東ベルリン」に分けられます。 ドイツの地図を見ると一目瞭然ですが、首都ベルリンはドイツの中央にあるわけではなく、東ドイツにあります。 このため、西ベルリンは東ドイツの中にぽつんとある飛び地のような状態になるのです。 やがて、アメリカやイギリスに代表される西側陣営と、ソ連に代表される東側陣営に対立が生じます。 1948年、ソ連は西ベルリンと西ドイツの陸路を封鎖。 これに対し、アメリカは食料などの物資を空輸することで対抗します。 東西陣営の対立が激しくなるにつれて、西ベルリンは「赤い海に浮かぶ自由の島」「自由世界のショーウィンドー」と呼ばれ、東ベルリンから西ベルリンへの人口流出が続出しました。 1953年には社会主義体制に不満を持つ人々による暴動をソ連軍が制圧する「ベルリン暴動」が起き、この年だけでも30万人もの人々が西側に逃れたといいます。 その後も人口流出は止まらず、戦後15年間で約300万人にも達するなか、ソ連と東ドイツは1961年8月13日午前0時、西ベルリンをぐるりと取り囲み、通行を遮断しました。 有刺鉄線を張り巡らせ、その後巨大な壁を建設します。 この処置によって、東西ベルリン間の通行が一夜にして禁止され、家族や知人が不意に引き裂かれることになりました。 1989年に壁が崩壊するまでの28年間、ベルリンは東西冷戦の最前線であり、ベルリンの壁は冷戦の象徴的存在となります。 ベルリンの壁崩壊の経緯 1985年、ミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任すると、「ペレストロイカ(改革)」、「グラスノスチ(情報公開)」と呼ばれる政策を推進していきます。 これによりソ連邦内、東ドイツ、東欧諸国などで民主化を求める声が高まっていきました。 東ドイツは当時、すでに有数の経済大国となっていた西ドイツとの経済格差を埋めることができず、財政的に苦境にあったうえ、抑圧的な体制に民衆の不満が高まっていました。 ゴルバチョフの改革を東ドイツでも導入すべきという声が高まりますが、当時の東ドイツ・ホーネッカー政権はこれを受け入れません。 すると東ドイツ国内でも不満がますます高まっていきました。 しかし、民主化の波は東欧諸国から東ドイツに打ち寄せてきます。 1989年5月、ハンガリーがオーストリアとの国境線にあった鉄条網を撤去。 続く6月には、隣国のポーランドで自由選挙がおこなわれ、東側陣営初の非共産党の政権が誕生します。 東ドイツの人々はハンガリー・オーストリアを経由して西ドイツに亡命することが可能になると考え、多くの人々がハンガリー国境に殺到しました。 9月11日、ハンガリーが国境を開放したことにより、多くの人々が西側への脱出を果たします。 この動きに対し、東ドイツ政府はなんら有効な対策をとることができませんでした。 10月、ホーネッカーが失脚し、後任としてエゴン・クレンツが書記長となります。 彼はゴルバチョフに支援を仰ぎながら改革をして、この事態を乗り切ろうと考えますが、ゴルバチョフに支援を断られてしまうのです。 また東ドイツは莫大な対外債務を抱えていて、破綻寸前の末期的状態にありました。 体制に不満を持つ人々の出国やデモが相次ぐなかで、東ドイツ政府は追い詰められていきます。 そして、11月9日。 政治報道局長のギュンター・シャボウスキーが、記者会見にて「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる。 その際、許可証は不要であり、この政令はただちに、遅滞なく実施される」という主旨の発表をします。 この会見をテレビで見ていた人々がすぐさま壁に殺到し、その日のうちに国境検問所が開かれ、28年間東西ベルリンを分断していた壁は一夜にして崩壊したのです。 ベルリンの壁崩壊は、勘違いがきっかけだった? 冷戦の象徴だったベルリンの壁は、わずか数時間で崩壊。 そのきっかけとなったのがシャボウスキーの記者会見ですが、ここにはいくつかの勘違いがありました。 記者会見時に彼が本来発表する予定だったのは、「旅行規制の緩和」というもの。 東ベルリンから西ベルリンに行くためには、正規の許可証が必要という内容であり、そしてその実施は翌日11月10日に発効する予定でした。 決して彼が発表したように、「即時に」、「誰もが自由に」西ベルリンに行くことを認めるというものではなかったのです。 勘違いの原因については、彼自身が報道局長に就任して日が浅かったこと、政令を策定する中央委員会が混乱し内容が二転三転していたこと、事務方との打ち合わせで何度も中座していたため政令の内容をしっかり把握することができなかったこと、会見場へ移動する車内が暗く、原稿に目を通すことができなかったことなどさまざまな要因が挙げられています。 いずれにせよ、シャボウスキーの勘違いによって、この記者会見は歴史的なものとなりました。 壁の崩壊が始まってから1ヶ月後、ゴルバチョフ書記長は、アメリカのブッシュ大統領と地中海のマルタ島で会談し、冷戦の終結を宣言します。 1990年10月には東西ドイツが再統一を果たし、1991年12月にはソ連邦が崩壊。 文字どおり堰を切ったように、ベルリンの壁の崩壊をきっかけとして時代は大きく動いたのです。 冷戦の最前線にして、象徴とも呼ばれたベルリン。 ある日突然一夜にして分断され、家族や知人、愛する人々と引き裂かれてしまった人々……。 本書は、実話に基づいて当時のベルリンを生きた人々の生の声を、漫画という形で伝えています。 命がけで危険な脱出を試みた女性や家族、自身の誕生日にベルリンの壁崩壊を迎えることになった青年のエピソードなどから、この時代の異質さを感じることができるでしょう。 壁崩壊20年を記念して設立された財団の助成を受けて上梓されました。 年月が経過するにつれ、ベルリンの壁や冷戦といった事柄が遠く感じられるようになっている今だからこそ、あの時代を振り返ることには意義があるのではないでしょうか。 グローバル化逆流時代を生きるには? 著者は新聞記者として約30年海外報道に携わっていた経歴があり、ベルリンの壁が崩壊した際にも特派員として現地で取材にあたっていた人物です。 壁の崩壊によって世界はグローバル化の時代を迎え、その流れは時を経るごとに加速していくかに見えていました。 しかしブレグジットやトランプ大統領の誕生に代表されるように、各国は徐々に閉鎖的になり、グローバル化の流れは逆転しつつあるのではないでしょうか。 筆者は、ベルリンの壁崩壊以降の激動の時代について、自身の豊富な取材経験に基づき、複雑な世界情勢の読み解き方を考察しています。 文章もわかりやすく、また物事の原因から書かれているので理解がしやすいでしょう。 先の読めない時代を読み解くために読んでおくべき一冊です。 小説で読むベルリンの壁 本書は20世紀を描く全3部作、「巨人たちの落日」、「凍てつく世界」に続く最後の作品です。 第一次大戦、第二次大戦をテーマにした前作に続き、本作では東西ベルリンを隔てる壁、キューバ危機、ケネディ暗殺、アメリカ公民権運動などがテーマとなっています。 小説であり、登場する人物は架空の人物。 激動の時代を生きた3世代にわたる人々の物語です。 しかし架空の登場人物だということを忘れてしまうほど、彼らの生きざまは烈しく、当時の情景がありありと目の前に浮かんできます。 時代のうねりは、ひとりの力ではとても抗いきれるものではありません。 しかし、自由を渇望する人々の意思がベルリンの壁崩壊につながったように、ひとりひとりの小さな意志が集ったからこそ、抗いがたいうねりが生まれるのも事実です。 先の見えない現代に生きる私たちにとっても、大いに参考になるでしょう。 同じ第二次大戦の敗戦国である日本にとって、東西ドイツの分断、そしてその象徴であるベルリンの壁に対して複雑な思いがあるのではないでしょうか。 いまだ冷戦の遺物である朝鮮半島の分断は続いており、その脅威は日に日に高まっています。 いつの日か朝鮮半島の分断も終わり、かつて東西ベルリン市民が手を携えたように、南北の人々が手を携える日がくればと願わずにはいられません。

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ベルリンの壁崩壊・冷戦終了から30年。6つの地図で東西ドイツの今も残る違いを見る(今井佐緒里)

ベルリン の 壁 崩壊

「ベルリンの壁」崩壊 (1989年11月)(写真:アフロ) 1989年に起こったベルリンの壁崩壊は、欧州の地図を塗り替え、東西冷戦の終結につながる大事件だった。 それから30年の節目に当たる11月9日、ベルリンなどドイツ各地で記念式典が行われた。 欧州の新聞やテレビ・ニュースには、「自由が勝利した年」というトーンの報道や論評があふれた。 だが肝心のドイツでは、祝賀ムードは希薄だった。 むしろこの国は、初冬の灰色の雨雲が低く垂れ込めているような、重苦しい雰囲気に覆われている。 その理由の1つは、壁の崩壊から30年たっても東西市民の間の「心の亀裂」が完全に埋められていないことだ。 多くの旧東ドイツ市民、特に社会主義時代に生まれ育った中高年の市民の間には、今なお「自分は統一によって貧乏くじを引かされた負け組だ」とか「自分たちは旧西ドイツ人から、2級市民のように見られている」というコンプレックスが残っている。 なぜ彼らは今も劣等感を抱いているのか。 その背景を知るには、時計の針を30年前まで戻さなくてはならない。 無血革命、東欧連鎖革命の始まり ベルリンの壁崩壊は、多数の東ドイツ市民が治安当局に逮捕される危険を冒して社会主義政権に対する抗議デモを繰り返し行った結果、発生した。 いわば草の根から始まった無血革命である。 東欧連鎖革命、そして社会主義陣営の崩壊につながる、鉄のカーテンに生じた最初の大きな綻びだった。 筆者は当時NHKワシントン支局の特派員だった。 この頃NHKにはドイツ語で取材できる記者が少なかったため、急きょベルリンへ飛ぶように上司から命じられた。 壁崩壊から1週間後の11月16日に、ニューヨーク、フランクフルト経由でベルリンに到着した筆者は、目を疑った。 西ベルリンの目抜き通りクアフュルステンダムを、東ドイツの国産車トラバントが埋め尽くし渋滞を引き起こしていたのだ。 この時のベルリンは、祝祭のような雰囲気に包まれていた。 肌を刺すような寒さの中、多くの人々が吸い寄せられるように、壁に沿った地域に集まってきた。 彼らは、1週間前に起きたことが現実であるとは信じられないという表情だった。 東西間の検問所を通って、東ドイツ市民が次々に西側に流れ込んでいる。 東ドイツの国境警備兵によるチェックは全くない。 彼らはぼうぜんとして、人の流れを見ているだけだ。 ポツダム広場付近では、すでに大きく壁が取り除かれている。 無人地帯を通って、車と人が次々にやってくる。 多くの西ベルリン市民がハンマーやのみで壁をたたき、破片を削り取っていた。 筆者は、涙を流しながら壁をたたいているベルリンっ子も見た。 彼らにとって壁は、第2次世界大戦と東西冷戦がこの町にもたらした、深い傷の象徴だった。 多くの家族が壁によって生き別れとなった。 壁を越えて西側に逃げようとして、警備兵に射殺された市民の数は数百人にのぼる。

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