フェルマー の 最終 定理 答え。 フェルマー最終定理とは? 証明される前から定理と呼ばれた大予想 | Tidbits

「フェルマーの最終定理」(1995年解決)や「ポアンカレ予想」(2006年解決)、「ABC予想」などの有名な数学の難問は誰が何のために作ったのですか?作成者自身も答えはわからなかったのでしょうか?

フェルマー の 最終 定理 答え

でも nが3以上になると答えがないというのがフェルマーの最終定理です。 フェルマーの最終定理の書き残し フェルマーには、ディオファントスの『算術』という本の余白に自分が気づいたことを書き込むという習慣がありました。 全部で48の書き込みがありましたが、その中のひとつがフェルマーの最終定理でした。 実際の書き込みはこんな感じです(Wikipedia訳)。 立方数を2つの立方数の和に分けることはできない。 4乗数を2つの4乗数の和に分けることはできない。 一般に、冪(べき)が2より大きいとき、その冪乗数を2つの冪乗数の和に分けることはできない。 この定理に関して、私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる。 「 私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる」 とフェルマーは証明を見つけたと書き込んでいます。 フェルマーは最終定理を証明していたのか? フェルマーは本当に最終定理を証明していたのでしょうか? 「数多くの数学者が挑戦して1995年にやっと証明された定理を、フェルマーという天才は1600年代に証明していた」 本当にそうなら、わくわくするような話です。 でも、実際にはきちんと証明できていなかったと考えられています。 ただ「証明した」と書き残していることは「定理」と呼ばれた理由のひとつでしょう。 フェルマーの定理の時代背景 フェルマー自身が「証明した」と書き残していることは「定理」と言われた理由のひとつと言えます。 でも 「 本の書き込みに『証明した』と書いてあるから証明されている『定理』だ」 なんて無邪気に信じられるはずもありません。 それなりの背景があるはずです。 そこで、少し当時の時代背景に触れてみたいと思います。 ディオファントスの時代 フェルマーが書き込みをしていたのは、古代ギリシャの数学者ディオファントスの『算術』という本です。 ディオファントスが『算術』を書いたのは3世紀頃、 フェルマーが読む1400年も前に書かれた本でした。 フェルマーはこの本を1630年代に読み、そこから数論のおもしろさや深遠さに目覚めたようです。 でもフェルマーのような大数学者が1400年も前の本に刺激を受けるというのは不思議な気がします。 古代ギリシャの数論 古代ギリシャでは紀元前から数学が発達しました。 ピタゴラスが、フェルマーの最終定理にも関連する三平方の定理を証明したのは 紀元 前6世紀のことです。 ユークリッドが有名な『原論』を書いたのが 紀元 前3世紀、そう考えるとディオファントスの紀元3世紀はつい最近のような気さえします。 その古代ギリシャの数論の集大成がディオファントスの『算術』だとも言えます。 『算術』の背景には、紀元前から脈々と受け継がれ発展していった歴史があるのです。 スポンサーリンク ヨーロッパの数学 古代ギリシャでは高度な数学が知られていましたが、あくまでも古代ギリシャの学者たちの間でのことです。 門外不出とまではいわないものの、広い地域に広まるようなものではありません。 古代ギリシャの数論はアラビアには伝わっていたようですが、ヨーロッパでは完全に忘れ去られていました。 フェルマーが産まれたフランスでは知る由もなかったのです。 ヨーロッパへの数論の広がり 1453年に古代ギリシャの知識が大量に流出するきっかけとなった大事件が起きます。 ギリシャ帝国(東ローマ帝国)の滅亡です。 そのときに学者たちが大量の文献を抱えてヨーロッパへ逃亡したことで、古代ギリシャの知識がヨーロッパに知られることになったのです。 その文献の中にディオファントスの『算術』もありました。 フェルマーがディオファントスの数論を読んだ時期 実際にディオファントスの『算術』が知られるようになるのは、翻訳されてからのことです。 最初に翻訳されたのが1575年で、フェルマーが読んだのは1621年にバシェによって翻訳されたものです。 フェルマーが『算術』を読んだ1630年代は、ヨーロッパの人々がようやく古代ギリシャの数論を目にすることができるようになった時代なのです。 古代ギリシャで多くの学者が長い年月をかけて作り上げた数論、その集大成がいきなり目の前に現れた、と考えればフェルマーが刺激を受けたことも納得できます。 ただ当時のヨーロッパではフェルマー以外に数論に強い興味を示した人はいなかったようです。 フェルマーは、数論に関しては孤立していました。 研究の記録 17世紀には学術論文などはありません。 自分の発見した定理などは、数学者同士手紙でやりとりしていました。 しかし数論の場合は、他に興味を示している数学者がいないため一方的に送り付ける形が多くなります。 数学者同士が送り合った書簡があれば、その証明の過程などもある程度わかりますが、それができません。 また自分の見つけた独創的な発見は、優先権を主張するため証明は載せず、それを使った結果だけを送ることが多かったようです。 ですから、数論に関してフェルマー自身が証明した結果はほとんど残っていないのです。 現在なら新しい定理を証明したら発表するのが当然ですが、フェルマーの時代には証明は発表しないのは、ある意味当然のことでした。 ですから、当時の人々が 「本当に証明していたのではないか」と考えても不思議ではありません。 フェルマーの業績 フェルマーは単に「フェルマーの最終定理」に名を残しただけの人物ではありません。 他にも大きな業績を沢山残しています。 それをみれば、フェルマーの最終定理が「定理」と呼ばれたことも納得できるのではないでしょうか? 数論の業績 フェルマーは 「数論の父」と呼ばれるほど、自然数を扱う数論で大きな業績を残しています。 その業績は基本的に 『算術』への書き込みによるものです。 『算術』への書き込みは、それだけで大きな価値のあるものだったのです。 その中には48個の問題があり、 後に数論の重要な定理となったものが沢山あるのです。 もちろん証明は載っていません。 フェルマーの書き込みを後の数学者が証明していったのです。 中には間違いもありましたが、 数論の重要な定理が次々と証明されたことでフェルマーの書き込みは「定理」と呼ばれるようになったのでしょう。 そして最後まで解決できなかった問題を 「フェルマーの最終定理」と呼ぶようになったのです。 そのおかげで人々の目に触れるようになったのです。 もしサミュエルが公開しなかったら数学の歴史も大きく変わったことでしょう。 数論以外の業績 フェルマーの業績は数論だけではありません。 当時は、確率論、解析幾何学、微分積分学などの新しい数学が誕生した時代ですが、全ての分野でフェルマーは大きな業績を残しています。 単に『算術』に書き込みを遺した数論専門の数学者ではなく、誰もが認める偉大な数学者だったのです。 その権威性も「定理」と呼ばれることに一役買ったことでしょう。 その証明は現代数学の最先端を組み合わせた複雑なものです。 現代の数学者でさえ簡単に理解することはできません。 フェルマーがこれと同じ証明を行ったということは絶対にあり得ません。 もしフェルマーが最終定理を証明していたとすれば全く違うアプローチだったはずです。 フェルマーでも可能だったかもしれない素朴な証明方法が見つかれば、 「 私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる」 が本当だったということになるかもしれません。 そうなれば面白いのですが、残念ながら期待薄のようです。

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フェルマーの最終定理の初等的解法

フェルマー の 最終 定理 答え

フェルマーの定理の証明 フェルマーの最終定理は、1995年にアンドリュー・ワイルズにより証明されたことは、すでに説明いたしました。 フェルマーの最終定理の証明には日本人数学者も相当貢献しています。 フェルマーの定理(大定理、最終定理)をもう一度書いておきましょう。 全ての場合を証明したのは、1995年のワイルズです。 証明は、Annals of Mathematics に2編発表されていますが、そのうちの主論文はこちらになります。 もう一つは、TaylorとWilesの共著で、割合短いものですが(Ring theoretic properties of a certain Hecke algebras. 、1994年に発表した論文の間違いを補完するもので、この2本の論文でフェルマーの最終定理は、証明されたのでした。 (証明) この問題は、大学入試問題でも通用します。 問題をわかりやすく書き直してみましょう。 あっという間に証明できてしまいました。 でも特殊な場合とはいえあのフェルマーを証明できたんだと言うことは、自信になるかもしれません。 代数的整数論の世界に入っていきます。 やはり、背理法を使うことになります。 前半は初等的ですが、後半はかなり難しくなります。 ここで用いた論法は、フェルマーが考えた無限降下法と言われています。

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フェルマーの最終定理とは 人生を賭けて証明! 証明の仕方が面白い! わかりやすく解説

フェルマー の 最終 定理 答え

発表から300年以上たった1994年、イギリスの数学者によって証明された。 背景 17世紀、フランスのア数学者が、の数学者の著書算術を読み、余白にを記した。 同時に真に素晴らしい証明を見つけたが、この余白では狭すぎて書くことができないと書き込んだ。 1670年、彼の息子がの書き込み入りの算術を出版した。 その後、が本に書き込んだ様々な予想は次々に証明されていったが、だけは誰も証明することができなかった。 3、4といった 個々の数字の証明は、その倍数の証明も兼ねる。 また、すべてのは 1と自分自身でしか割りきれない数 の倍数で表せる。 つまり の証明は、nがの場合のみ考えればよい。 但しは無限に存在する。 しかし同時に彼は、 理想数を用いてもの証明は不可能と結論付けた。 次第に個々の数字の証明は行われなくなった。 谷山志村予想と 1955年、日本で開催した数学の国際会議で日本の数学者谷山豊が、別々の数学の領域だった とモジュラー形式が実は結びついていると予想した。 この予想は同僚の日本の数学者志村五郎によって定式化された。 これを谷山志村予想という。 1985年、ドイツの数学者フライが 仮にが誤っている場合、導かれる フライ曲線 はモジュラー形式に結びつかないと予想した。 この予想はフランスの数学者セールによって定式化された。 これをフライセール予想という。 1986年、カの数学者リベットがフライセール予想を証明した。 これにより、 の証明は、谷山志村予想を証明すればよいことになった。 このロジックをという。 とは、 ある命題を偽と仮定した時の矛盾を示すことにより、命題が真だとする証明法のこと。 を偽と仮定した時フライ曲線が導かれるが、これは谷山志村予想に矛盾する。 この矛盾は谷山志村予想が正しいときに成立するため、谷山志村予想が証明できれば、によりが真といえる。 の証明 イギリスの数学者はフライセール予想証明の報を聞き、の証明に着手した。 とモジュラー形式の結びつきを証明するためには、両者の比較が必要となる。 3年後、彼は表現に変換して比較する方法にたどり着いた。 表現へのアプローチには岩澤理論を採用したが、数か月後に行き詰った。 1991年、岩澤理論を捨てコリヴァギンフラッハ法を採用した。 1993年、はイギリスで開催した講演会で、を証明したと発表した。 証明の修正 証明の発表は世界的なニュースとなったが、審査においてコリヴァギンフラッハ法のロジックに欠陥が見つかった。 はイギリスの数学者テイラーと一緒に修正を試みたが、解決策の見つからないまま1年が過ぎた。 1994年、諦めかけていたがせめて失敗した理由を明らかにしようとコリヴァギンフラッハ法を見直していた時、突然 一度捨てた岩澤理論を用いた修正方法をひらめいた。 1995年、再審査を経ての証明が確認された。 新たな証明方法 2012年、 の教授がを証明したと発表した。 が正しい場合、nの解は5以下に絞られる。 2020年、論文が欧州数学会発行の専門誌PRIMSに受理され、の証明が認められた。 gmaj7dmaj7gmaj7dmaj7.

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