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回答先: 投稿者 転載の天使 日時 2003 年 5 月 29 日 14:16:34 そんなわけで、この団体「GLA」とはなにもの? な疑問に、「タテマエ(現在・表)」と「ホンネ(過去・裏)」の側面から迫っちゃおう。 高橋信次先生は、「人間は永遠の生命を抱く魂である」「人間には目的と使命がある。 それは魂の成長と仏国土・ユートピアの建設である」など、神理の根本を示して下さいました。 そして全国を駆け巡られ、ご講演されるかたわら、『心の原点』『心の発見・三部作』『人間釈迦』をはじめとする数多くのご著作を世に問うて下さったのです。 こうして踏み出された高橋信次先生の大きな歩みは、7年の光跡となって1976年信次先生の御帰天とともに高橋佳子先生に引き継がれ今に至っています。 GLAとは、神(God)の光(Light をこの地上に顕現することを願いとする集い(Association の意です。 在来の宗教団体とは一線を画しているのだというのが、彼らの矜持となっているようです。 しかしながら、GLAは1973 昭和48 年 法人格取得をしていますので、宗教法人「GLA」として登録されており、宗教法人法の適用団体です。 <参考> 宗教法人法 宗教法人の税金・会計 ホンネの部 それでは、GLAの「開祖・教祖」の「過去」を見て、まとめてみましょう。 その根拠として、著書や講演で「自分の守護霊はイエス・キリスト、指導霊はモーゼ。 前世は、釈迦・ギリシャ神話の主神ゼウス・天台チギ・不空三蔵・木戸孝允などである」と断言。 晩年の講演会では、実は自分は霊太陽・人類の主「エル・ランティー」であると宣言。 自分の霊魂は、世界宗教における「ヤハウェ」であり「エホバ」であり「アッラー」であると、機関誌「GLA」にも掲載して信者に流布。 1976年に、信次が「エル・ランティー宣言」をした際、自分は「真のメシア、エル・ランティーの助力者・天上界の大天使ミカエル」であることを宣言。 その宣言が載った『真創世記』三部作(祥伝社)は大ベストセラーとなった。 前世は、父にならって、古代日本の卑弥呼、宗教改革のルター、旧約聖書の預言者エリヤ、ギリシャ神話の太陽神アポロンなど。 最近は機関誌「GLA」に、佳子の汗が金粉になるなどの「奇跡」「神のみしるし」現象が起きたと書いてある。 特に1993年と2001年以降、天井近くから金粉を降らせたり、口から金片を出したり、ドライフラワー状態の花を蘇生させた奇跡が「佳子が天からの使いである神の証」として起こったことが「特集」されたばかり。 主著:『真創世記(地獄編・天上編・黙示編)』(1977年・祥伝社) (本当の著者は、SF作家・平井和正。 詳しくはこちら 『人間の絆(響働編・自業編・基盤編)』(1991年・祥伝社) 『新しい力』『「私が変わります」宣言』(2001年・三宝出版) 『人生で一番知りたかったこと』(2003年・三宝出版) この二人の開祖・教祖の「過去」については、当サイトでたっぷりと解説いたしておりますので、左フレームのコンテンツをお読みください。 とりあえず21世紀のGLAあたりが、最初のひとくちとしてほおばっていただけるかと思います。 ここで、最初の「GLA総合本部からのお知らせ」に戻っていただきたいのですが、この「お知らせ」には、なぜか「パナウェーブ研究所」の名前はあっても、その母体、だれもが知っている「千乃正法会」の名前がどこにもありません。 「千乃正法会」は、その名前の通り、高橋信次のとなえた教義「正法神理」の影響を受けて、1977年に創設されたのですから、「正法」という文字を出すことは、GLAとしてはなんとしても避けたかったのでしょう。 でも、無駄な努力です。 「パナウェーブ研究所=千乃正法会」である事実は変わりません。 千乃裕子は「ミカエル大王」「エルランティーのメッセージ」を機関誌に載せて、教義の重要な一部としてきました。 「正法」という教義がある限り、「GLA」と「白装束集団」は、宗教法人「幸福の科学(主宰:大川隆法)」もふくめて、同じ高橋信次の言説から生まれた「兄弟カルト」であることは、いまさら否定できることではないでしょう。 <一見の価値有り> 「高橋信次」の1970年代の講演会をVCDとして販売しているサイトがあります。 あまりにも異様な光景をサンプル画像にてご覧下さい。 (楽天フリマ).

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の家臣。 の子で、の実父にあたる。 生涯 [ ] 高橋家相続 [ ] 17年()、の重臣・の次男として筧城 に生まれる。 義鑑の子・(のちの宗麟)と父・鑑理から1字ずつ賜り 鎮理と名乗る。 初陣は13歳で4年()のと考えられている。 10年()、大友氏の家臣であったが・・の国人と連携して謀反を起こした際、父・鑑理や兄・と共に出陣して武功を挙げた。 12年()に大友義鎮(宗麟)の命により高橋氏のとの2城を継ぎ、名を 鎮種と改めた。 以降は北九州の軍権を任されていたと共に筑前国を支配することとなる。 北九州各地を転戦 [ ] その後、鎮種含む大友の筑前五城将(道雪、鎮種と主・、主・、主・、)は筑前、筑後、肥前、豊前の諸勢力 、、、、、、、、、、、 と戦を繰り返す 6年()で大友氏はのに大敗を喫する。 この大敗により兄・、義兄・、大友氏重臣の、、など多数の有力武将が戦死。 肥前国のや筑後国の、筑前国のらが大友領への侵攻を開始した。 同年、鎮種は剃髮して 紹運と号している。 天正9年()、男子のいない道雪の度重なる要請により、嫡男・統虎を道雪の娘・の婿養子とした。 これにより高橋家は次男・が継ぐこととなる。 筑後遠征 [ ] 天正12年()ので龍造寺隆信が討ち死にしたことにより、島津方の圧力が強まる中、紹運は立花道雪やと共に筑後を守るべく戦っていた。 3月、豊後国の大友軍はのを攻撃したが、城方の奮戦や龍造寺方の援軍・(土肥出雲守)を前に戦線は膠着した。 8月18日、道雪と紹運は大友義統の出兵要請を受け、両家合わせておよそ5,000の兵で出陣し、勇ましい強行軍の態勢で敵領地のや道路が未整備の、の高峰や九十九折など山険難所を越え、鉄砲隊で埋伏していた秋月、筑紫、草野、星野連合軍を蹴散らし(田主丸町・片瀬、恵利渡口・石垣表の戦い)、ただ1日で筑前から筑後まで15里(約60キロ)の行程を走って、8月19日夕方、猫尾城の支城・高牟礼城下に到着した。 道雪はさっそく城将・椿原氏部を調略し、24日に高牟礼城は開城降服して、土肥家実も城から逃れ去った。 つづいて犬尾城の川崎重高(一説には)も降り、25日には川崎の権現山に陣替えしたが、筑後高良山座主・や大祝保真、宗崎孝直、甘木家長、稲員安守らも大友軍に加わった。 28日 には道雪が一族の(戸次右衛門大夫) を将として800兵の別働隊を率いて坂東寺に入ってを攻めて、立花勢は鎮実以下、(竹迫日向守)と(安倍六弥太) は勇戦して数人を討ち取って城の外郭を焼きしたが、城主と兄弟と城兵300騎の激しい抵抗に遭い、そこへの援兵が到着したので、百余りの死傷者を出した。 道雪と紹運の本隊は酒見・榎津・貝津などの集落を焼き払って、ついに大友諸将と軍議をひらいて猫尾城の総攻撃を決めて、9月5日に落城させた。 9月8日から11日まで、の山下城や谷川城、辺春城、兼松城、山崎城など筑後諸城を降伏、攻落した。 この間にもう一度坂東寺に陣を取り、豊後大友軍の総大将・と軍議しての西牟田村・酒見村・榎津近辺数百の民家を焼き払い、9日に柳川城周辺の山門郡内の龍造寺方の諸城を攻めて、10日に上瀬高・下瀬高・鷹尾村を焼き払って、城主・が不在であった鷹尾城も占領した。 の柳川城は九州有数の難攻の水城であり、その支城、の妻・が鎮守する蒲船津・百武城も同じ水路が入りくみ沼地が自然の要害となっていた難攻の城で、さすがの道雪、紹運も攻略の進展ができなかった。 そのため、10月3日には筑後高良山座主・丹波良寛の勧めもあって、高良山に引揚げ、軍勢を転じて久留米城、安武城、吉木竹井城を攻落した。 10月4日、両軍はの発心岳城を進攻し、のちの鷹取城・福丸城・星野城、そして11月14日にの井上城を攻めて、秋月領の甘木辺りまで焼き討ちした。 その際、田原親家は両将の戦功を嫉み、更に年の暮れが迫っていたので、豊後に引揚げた。 残された道雪、紹運や朽網鑑康、らは、高良山を中心に筑後川に沿った柳坂から北野に布陣したまま、年の越えを迎える。 天正13年()2月上旬から4月23日まで龍造寺政家、龍造寺家晴、鍋島直茂、、筑紫広門、、草野鎮永、星野吉実、秋月種実、、、など肥前、筑前、筑後、豊前連合軍およそ30,000余の大軍と小森野、十三部、祇園原など(総じて筒川合戦や久留米合戦) で数々の激戦があったが、道雪と紹運、鑑康、良寬ら大友軍は9,800の劣勢ながら、いずれも見事で兵法、戦術や兵器、陣形を活用してしばしば局地戦で敵大軍を撃破したが、のち道雪は老衰で発病のため、龍造寺側に決定的な打撃を与えることができなかった。 天正13年()9月、道雪が病没。 これを好機と見た筑紫広門に宝満城を奪取されたため、紹運は筑後遠征を中止して宝満城を奪回する。 のちに広門と和睦し、広門の娘・加袮を次男・統増の正室に迎えた。 岩屋城の戦い [ ] 天正14年()、島津氏が大友氏を滅ぼすべく岩屋城・宝満山城のある太宰府まで北上。 紹運は防御の薄い岩屋城にておよそ763名と共に迎撃、島津軍の降伏勧告を拒絶し徹底抗戦した()。 半月に及ぶ戦いの末、敵兵多数を道連れにし玉砕。 岩屋城は陥落した。 享年39。 激戦の様子について、• 『筑前続風土記』には「終日終夜、鉄砲の音やむ時なく、士卒のおめき叫ぶ声、大地もひびくばかりなり。 城中にはここを死場所と定めたれば、攻め口を一足も引退らず、命を限りに防ぎ戦ふ。 殊に鉄砲の上手多かりければ、寄せ手楯に遁れ、竹把を付ける者共打ち殺さる事おびただし」• 『北肥戦記』には「合戦数度に及びしかども、当城は究意の要害といい、城主は無双の大将といい、城中僅かの小勢にて五万の寄せ手に対し、更に優劣なかりけり」• 『西藩野史』には「紹運雄略絶倫、兵をあげて撃ち出し、薩軍破ること数回、殺傷甚だ多し」 などと記されている。 紹運は度々の降伏勧告を拒絶し玉砕したというのが通説だが、当時の島津の記録である『』天正14年7月26日条において、紹運が笠の陣まで出向き退城しないことを条件に講和を持ちかけたとの記録も存在する。 人物・逸話 [ ]• 『高橋記』は紹運について「文武に通じ徳智謀達し、諸人に情深く忠賞も時宜に応じ私欲は無く、古今稀なる名将であり」、数百人の侍が岩屋城で共に戦死した理由がそこにあると記し、また紹運の人となりを義に於き「義に生き義兵を以て義に死んだ。 家中の勇も仁義の勇である。 」、「賢徳の相有りて、衆に異る。 器量の仁にてましませば」と評価している。 立花道雪と並んで、風神・雷神と称される(風神が高橋紹運、雷神が立花道雪)。 『筑前国続風土記』では「紹運 平生情深かりし故 且は其の忠義に感化せし故 一人も節義うしなわざるべし」と評価される。 斎藤鎮実の妹(一説には娘ともいわれる)・宋雲院との結婚が決まっていたが、度重なる戦で婚儀が延び、その間に鎮実の妹はを罹い、容貌が悪くなってしまった。 鎮実は破談を申し出たが、紹運は「私は彼女の容姿に惚れて婚約を決めたのではない、心の優しさなど内面に惹かれて婚約を決めたのだから、容姿が変わろうとも問題はない」と、そのまま正妻として迎え、二男四女を儲けた。 紹運の菩提寺である天叟寺に祀られている紹運の位牌は現在、宋雲院との比翼の位牌となっており、墓所も夫婦合葬されている。 長男の統虎の婿入りの際、紹運は統虎に対し「道雪殿を実の父と思って慕うように」と言い聞かせた。 また、備前長光 を与え「道雪殿とわしが争うことになったならこれでわしを討て」と訓戒したといわれている。 愛用の太刀は仁王三郎清綱、のちに次子・統増に譲った。 での大敗を機に、前当主・高橋鑑種の頃からの筆頭家老・は紹運に大友氏を見限るよう説得したが、紹運はそれを拒絶した。 はこれに目をつけ鎮久を籠絡し、主君・紹運を放逐させるよう画策したが、企みは紹運に露見し失敗。 鎮久は岩屋城に登城するところを誅殺された。 その後紹運は、経緯を知らない鎮久の子・に誅殺の仔細を説明し、種興を不問に付して遺領を継ぐことを認めた。 一方、秋月種実は鎮久の内応確約を受け取り、に命じ岩屋城を奪うべく300名ほどの軍勢を派遣するが、この内応確約は紹運と示し合わせた種興の策略であり、紹運率いる軍勢に待ち伏せされて内田は戦死、軍勢も生きて帰れたのは30余名ほどだったと言われる(龍ヶ城夜襲戦と血風奈須美の陣)。 汚名を雪いだ北原種興はその後、高橋家の重臣として用いられることとなった。 、、ら周辺の反大友勢力と常に数の上では劣勢となる戦いを強いられたが、敵陣に援軍到着の虚報を流し、退路に見せかけの援軍の旗を立たせて混乱を誘うなど、武勇だけではなく、智将としての活躍も伝えられている(柴田川の戦いや血風奈須美の陣)。 岩屋城の戦いの最中、島津方の武将が城方に矢止めを請い「なぜ仏法を軽んじ、キリスト教に狂い人心を惑わす非道の大友氏に尽くされるのか。 貴殿の武功は十分証明されました。 降伏されたし」と問いかけた時、紹運は中櫓の上から「主家が隆盛しているときは忠勤に励み、功名を競う者あろうとも、主家が衰えたときには一命を掛けて尽くそうとする者は稀である。 貴方自身も島津の家が衰退したとき主家を捨てて命を惜しむのか。 武家に生まれた者として恩・仁義を忘れるものは鳥獣以下である」と応え、敵味方双方から感嘆の声があがったと言われている。 岩屋城の戦いにおいて、紹運以下全員が玉砕することになるが、島津軍にも戦死傷者3,000人とも言われる甚大な被害を与えた。 島津軍は軍備立て直しのため時間がかかり、豊臣軍の九州上陸を許してしまう。 紹運らの命を賭した徹底抗戦は結果的に島津軍の九州制覇を打ち砕くことになった。 高橋紹運の墓(右)との戦没者慰霊碑(左奥)[二の丸跡]• 岩屋城落城後、般若坂の高台にて紹運以下の首実検が行われた。 攻め手の総大将・は床几を離れ地に正座し、「我々は類まれなる名将を殺してしまったものだ。 紹運殿は戦神の化身のようであった。 その戦功と武勲は今の日本に類はないだろう。 彼の友になれたのであれば最高の友になれただろうに」と諸将とともに涙を流し手を合わせたと伝わっている。 天正15年(1587年)、は薩摩国に入り島津氏を降伏させる。 帰途、太宰府の観世音寺(後の山王の社)に立花統虎を呼び、父・高橋紹運の忠節義死を「この乱れた下克上乱世で、紹運ほどの忠勇の士が鎮西(九州)にいたとは思わなかった。 紹運こそこの乱世に咲いた華(乱世の華)である」とその死を惜しんだと伝わっている。 岩屋城甲の丸跡には、家臣の子孫によって建立された「嗚呼壮烈岩屋城址」の碑がある。 岩屋城下に石で築かれた塚がある。 この塚は島津軍に金で雇われ、水の手に導いた老婆が落城後、紹運を慕う領民に責められ、生き埋めにされたと伝わっている。 紹運以下、高橋家家臣団の命日7月27日には、現在でも縁者による岩屋城戦犠牲者追悼法要が行われている。 家臣団 [ ]• (北原能登守、伊賀守。 高橋六宿老筆頭・龍ヶ城主)• (北原摂津守、進士兵衛。 鎮久の子)• (屋山中務少輔、三介。 今村宗嘉の子。 高橋六宿老第二座・岩屋城代)• (種速の子)• (高橋六宿老第三座)• 伊藤八郎• (高橋六宿老第四座)• (高橋六宿老第五座)• (今村美作入道、初代五郎兵衛。 高橋六宿老第六座)• (二代目今村五郎兵衛。 宗嘉の子)• (三原和泉守重種、種徳)• (三原清右衛門。 紹心の子)• (萩尾遠江守、大学助麟可、始めは伊東大内蔵繁連。 (二代目萩尾大学助。 治種の子)• (善虎の長男)• (善虎の次男)• (谷川大膳、立心)• (弓削平内)• (藤内左衛門)• (太田民部允)• (太田久作。 惟久の子)• (瀬戸口十兵衛、紹兵衛)• (高橋越前守)• 高橋紹運を題材とした作品 [ ]• 『戦国挽歌 高橋紹運』(1997年、のち人物文庫『高橋紹運 戦国挽歌』改題・2008年)• 『乱離の風 若き日の立花宗茂』(1981年、のち文春文庫1986年、のち学陽書房人物文庫『立花宗茂と立花道雪』改題・2008年)• 『さいごの一人』(2008年)• 『孤軍』(2017年) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 天正6年(1578年)• 12月3日 - 4日 第一次筑紫、秋月岩屋侵攻・柴田川の戦い :道雪、紹運対秋月種実、筑紫広門、問註所鑑景• 12月11日 - 13日 宝満・立花城・宇美・八岳 障子嶽 の戦い :道雪、紹運対龍造寺隆信、宇美・矢野・神武郷人• 天正7年(1579年)• 1月中旬 第二次筑紫、秋月岩屋侵攻:高橋軍・屋山種速・関善虎・関内記対秋月、筑紫• 3月16日 筑前八嶽の戦い:立花軍・由布惟信・小野鎮幸・米多比鎮久・十時連貞ら対秋月、宗像、原田• 4月初 第三次筑紫、秋月岩屋侵攻(筑前石栗領の戦い):紹運対秋月、筑紫• 4月 第一次太宰府石坂・筑前針摺の戦い:道雪、紹運、志賀親守、小田部鎮元、大鶴鎮正対秋月種実、杉連並、麻生元重、宗像氏貞、許斐氏備、原田鑑尚• 4月18日後 第一次荒平(安楽平)城攻防戦・二日市の戦い:道雪、紹運、志賀親守、小田部鎮元対秋月種実、杉連並、宗像氏貞、原田隆種• 4月27日 第一次吉川の戦い:立花軍・後藤連種・十時連貞対秋月、宗像• 7月12日-18日 第二次生松原の戦い・第一次鳥飼の戦い:道雪、小田部鎮元、大鶴鎮正対原田隆種・原田親秀・原田藤種• 7月18日 第二次荒平城攻防戦:小田部鎮元、大教坊兼光対江上家種、原田親秀• 7月27日 第一次太宰府観世音寺の戦い:道雪、紹運、薦野増時対秋月、筑紫、原田• 8月13日-14日 第三次生松原の戦い・柑子岳城兵糧救援:立花軍・足立連安・小野鎮幸・米多比鎮久・後藤連種・由布惟時・安東連善・安東連信ら対原田隆種• 8月中旬-9月初 多々良浜・箱崎・上松城の戦い:道雪対宗像氏貞、麻生元重、原田鑑尚• 9月6日 吉水 木 の戦い:道雪、紹運対秋月• 9月11日 池田城・第三次荒平城攻防戦:小田部鎮元、大鶴宗逸、立花軍・小野鎮幸・十時連貞ら対大教坊兼光、龍造寺軍• 9月18日 宗像鞍手郡の戦い:道雪、紹運、志賀親守対宗像氏貞、原田鑑尚• 9月下旬 第四次生松原の戦い・高祖山城攻防戦:道雪、志賀親守、木付鑑実、大鶴鎮正、小田部残兵ら対原田親秀・林慶・種守• 9月下旬 柑子岳城落城:木付鑑実対原田隆種(一説は12月に落城)• 10月24日 鷲岳城救援:紹運、大鶴鎮正対龍造寺軍・大田兵衛、筑紫広門• 11月15日 第四次筑紫、秋月岩屋侵攻・高尾山の戦い:道雪、紹運対秋月、筑紫• 12月26日-29日 糟屋郡攻防・許斐岳城奇襲戦:道雪・戸次鎮栄・薦野増時対秋月軍・惠利暢堯、宗像軍・許斐氏備、杉連並、麻生勢• 天正8年(1580年)• 2月2日 早良郡龍造寺方一揆討伐:道雪・十時連貞対龍造寺勢• 3月18日 荒平城落城:小田部残兵対龍造寺軍• 5月 筑前貓城攻略:道雪、森鎮実対宗像氏貞• 9月10日 第二次吉川の戦い:道雪・米多比弾介対宗像軍• 9月26日 第一次嘉麻・穂波の戦い:道雪、紹運対秋月種実• 10月18日 蘆木 龍ヶ城 夜襲戦:紹運・北原種興対秋月軍・内田彦五郎• 10月中旬 第二次嘉麻・穂波の戦い・第一次八木山石坂の戦い:道雪・十時連貞、紹運対秋月軍・井田親氏• 11月3日 血風奈須美の陣:道雪、紹運対秋月種実、問註所鑑景• 天正9年(1581年)• 7月27日 第二次太宰府観世音寺・第二次太宰府石坂の戦い 上記の針摺の戦い北方の太宰府石坂と同戦地 :道雪・竹迫統種・薦野増時、紹運・宗茂対龍造寺隆信、原田隆種、秋月種実、筑紫広門• 9月 鷲岳城落城:大鶴鎮正、小田部残兵対龍造寺軍• 11月6日 第三次嘉麻・穂波の戦い・潤野原の戦い・第二次八木山石坂の戦い(上述の太宰府南・筑紫野市針摺北の石坂とは別の穂波郡八木山石坂道大日寺口):道雪・宗茂、紹運対秋月軍・坂田実久、筑前国人衆長野・城井・千手・杉• 11月12日-13日 小金原の戦い 清水原の戦い :立花軍・由布惟信・小野鎮幸・薦野増時・立花鎮実・内田鎮家・足立連安・米多比鎮久ら対宗像軍・河津盛長・吉田貞辰・石松秀兼ら、秋月軍、杉連並• 天正10年(1582年)• 3月10日 第五次生松原の戦い:道雪・内田鎮家・十時連貞対原田軍・籠野大炊• 3月16日 許斐岳・吉原、八並侵攻(西郷表の戦い):立花軍・小野鎮幸・由布惟信・内田鎮家対宗像軍・許斐勢• 4月16日 岩戸の戦い:道雪・宗茂・薦野增時ら対原田軍・笠興長、秋月、宗像• 9月下旬 三笠郡攻防• 10月2日 米ノ山城奪還戦:立花軍・吉田連正、紹運対秋月種実• 12月22日 山東宗像領侵攻:道雪・宗茂、紹運対宗像• 天正11年(1583年)• 1月-2月4日 立花城下の戦い:立花軍・竹原藤内対筑紫広門• 2月17日 岩屋城下の戦い:高橋軍・対筑紫広門• 3月1日 太宰府の戦い:道雪・立花統春・立花鎮実・安東連忠、紹運対筑紫広門• 3月16日 宗像領吉原口防戦:道雪・宗茂、紹運対宗像軍・吉原貞安• 4月8日 那珂郡の戦い:立花軍・竹原藤内対筑紫広門• 4月23日 第二次許斐岳城攻略:道雪・宗茂、紹運対宗像氏貞• 天正12年(1584年)• 2月7日 岩屋城火事救援:道雪、紹運・屋山種速・今村基秀対筑紫軍• 4月12日 武蔵表の戦い:道雪・吉田連正・後藤連種・佐藤次郎三郎、紹運対筑紫広門• 10月 筑後星野城攻略:道雪、紹運対星野吉実• 天正14年(1586年)• 7月初 鳥飼城夜襲:紹運対鳥飼氏勝• , pp. 405-406 には「天正十一年」のこととある。 , p. 718 には「天正十三年乙酉正月」とある。 , pp. 342-343 には「天正十二年九月」とある。 道雪の親族に右衛門大夫と名乗ったのは、戸次 立花 右衛門大夫鎮実但馬了均という人だけなのです。 のちの際にの柳川侵攻(江上・八院の戦い)で防戦して、次男の親雄とともに戦死した。 『柳川歴史資料集成第二集 柳河藩享保八年藩士系図・下』。 立花(戸次)右衛門太夫が城島城の攻防戦で戦死したとする文献は『筑後国史』のほかにも複数あるが、戸次氏系図には「慶長5年於筑後国八院戦死」とあり、関が原の戦いの後の鍋島勢との戦い「八院合戦」で戦死したのです。 尚、この「八院合戦」戦死説でも右衛門太夫の戦死場所は八院ではなく、城島付近となっている。 の名代。 『柳川藩叢書』・第一集によると、天正12年(1584年)8月28日、筑後城島の戦いで戦死した。 なお、のちの三潴郡掃討戦で戦死した説もある。 出典 [ ] は列挙するだけでなく、などを用いてしてください。 記事のにご協力をお願いいたします。 ( 2016年8月)• 岡茂政、光行照太、藤丸満,《柳川史話(第1巻 人物篇其の1)》,福岡県文化会館,1969• 古賀敏夫,《戸次道雪・高橋紹運(長編歴史物語戦国武将シリーズ)》,古賀敏夫,1974• - (2019年3月30日アーカイブ分) 先代: 高橋鎮種(紹運) 次代:.

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