野口 みずき。 「神のつながり」感じて=野口みずきさん、アテネで大役―3月12日に聖火採火式

野口みずきは現在は夫のカメラマンと結婚して上海に移住をしていた

野口 みずき

女子マラソンで活躍した野口みずきが、7月4日に地元の三重県伊勢市で結婚式を挙げた。 「お相手は関西テレビに勤務する報道カメラマンのNさん。 40代半ばでイケメンだと局内でも評判です。 入籍は5月にすでにすませていたそうなので、ラストランから2か月でのゴールイン。 選手生活を終えたタイミングで新たな人生を始めようと考えたのでしょう」(スポーツ紙記者) 彼女が現役引退を発表したのは、今年の4月15日。 リオデジャネイロ五輪を目指していたが、3月の名古屋ウィメンズマラソンで23位と惨敗。 代表入りの道を絶たれたことで、引退を決断した。 「故障続きで、ずっとまともに走れない状態でしたからね。 '04年のアテネ五輪で優勝したときは黄金時代が訪れると期待されていましたが、'08年の北京五輪は直前に左脚の故障で辞退。 '12年のロンドンで再起を目指したものの、選考の舞台となった大阪女子マラソンにはやはり故障で出場できませんでした。 ラストチャンスのリオに向けて練習を重ねてきましたが、万全の体調には戻りませんでしたね」(スポーツ紙記者) 期待が大きかった反動で、バッシングにさらされたこともある。 しかし、10回のマラソン出場で5度優勝というのは傑出した成績。 '05年のベルリンマラソンでマークした2時間19分12秒の日本記録はいまだに破られていない。 「Nさんは報道畑ですから、本来なら接点はありません。 過去に彼女を題材にしたドキュメンタリーを制作したときに出会ったようです。 当時は恋愛までには至らなかったんですが、'14年ごろから交際が始まったということです」(関西テレビ関係者) 彼女はこの年まで独身を貫いていたが、決して結婚を諦めたり、結婚願望がなかったわけではない。 伊勢市の猿田彦神社で身内だけの式を行い、のちに伊勢神宮にも参拝した。 野口は白無垢の花嫁姿を披露。 さっそく、現地を訪ねてみた。 「結婚されたのはよかった。 おめでとうと言いたいですね。 でも、野口さんは伊勢出身だといっても、あんまり地元に戻って来てないんですよ。 特に地元を盛り上げてくれているわけでもないので、正直なところそんなに興味もないですね」(地元の商店主) 意外なことに、街を歩いていても祝福する雰囲気はあまり感じられなかった。 歓迎ムードが広がっている様子はなく、そもそも関心もなさそう。 返ってくるコメントは、冷ややかなものが多かった。 「アテネのときは盛大な応援がありましたが、2連覇を期待された北京に出場できなかったことで意気消沈してしまったようです。 その後も何度となく失望を味わい、後押しする気持ちが萎えてしまったんじゃないでしょうか。 野口さんも引け目を感じてしまったのか、地元での活動にはあまり積極的ではありませんでした。 そういう状態が長く続き、徐々に気持ちが離れてしまったのでしょう」(スポーツ紙記者) 結婚を機に再び地元との絆を取り戻すこともできたはずだが、あまりオープンにはしたくなかったようだ。

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野口 みずき|岩谷産業 陸上競技部

野口 みずき

この記事の目次• 野口みずきのプロフィール 出典: 生年月日:1978年7月3日 出身地:三重県伊勢市 血液型:O型 身長:150cm 体重:40kg 趣味:音楽鑑賞 座右の銘:走った距離は裏切らない 野口みずきさんは、元マラソン選手です。 金メダリストであり、女子マラソンの日本記録・アジア記録保持者でもあります。 1978年7月3日、神奈川県に生まれた野口みずきさんは、後に三重県伊勢市に転居しており、三重県伊勢市を出身地としています。 植物の「ハナミズギ」か名前の由来となっているそうです。 音楽が好きで、ヒップホップ、エレクトロニック・ダンス・ミュージック、パンクロック、スカなど 激しい曲調の音楽が好みだそうで、レース直前もヘッドホンで音楽を聴いていたそうです。 また、海外合宿の際も音楽専門チャンネルの「 MTV」をよく視聴しており、2004年のアテネ五輪では特に 「SOULHEAD」の「LOVER、KNIGHT、MAN」が思い出深いと述べています。 野口みずきの経歴まとめ 出典: 野口みずきさんは、どのような経歴の持ち主なのでしょうか。 野口みずきさんのこれまでの経歴について、調べてみました。 学生時代 野口みずきさんは中学1年生の時に、 友人に誘われたことがきっかけで陸上部へ入部します。 当時は特に大きな功績などを残していませんでしたが、三重県立宇治山田商業高等学校の陸上部顧問の目に留まり、スカウトされ同校へ進学します。 高校進学後は3000mの種目でインターハイに出場した他、駅伝の選手としても活躍したことで、高く評価されるようになりました。 そんな高校時代の練習コースは現在、「 みずきロード」と命名されています。 しかし、高校を卒業したのちに入社したワコールで出会った、 広瀬永和監督は入社前の野口みずきさんの走りを見て以下の様に感じたそうです。 パッと見た目は『将来性はないな』と思いました。 筋力がないから腰が引けて、どうしても足だけで前に行く走り。 そういう走り方を見ていたら、『このままじゃ、あんまり活躍できないな』と、パッと見では思いました。 引用: 初めての走りでは大きな期待を寄せられたわけではなかったようですが、その後、野口みずきさんの才能に広瀬永和監督が気づき、以来20年近く指導する関係となります。 プロ時代(ワコール入社~グローバリー移籍) 出典: 野口みずきさんは高校卒業後、 1997年にワコールに入社します。 高校時代の活躍から数ある企業に声をかけられた野口みずきさん。 ワコールを就職先に選んだのは、 ワコールに所属している真木和選手が初マラソンで初優勝する様子を見たことで、一緒に走りたいと思ったからなのだそうです。 しかし、野口みずきさんはワコール入社からわずか 1年で退社してしまいます。 ワコールと対立した藤田信之監督が1998年に辞任し、その際に真木和選手や野口みずきさんといった選手を伴って同社を去ったためです。 1999年に藤田信之監督らとともに グローバリーに入社する間の約4ヵ月、野口みずほさんらは無職となってしまいました。 しかし、雇用保険の求職者給付を利用しながら、食事メニューを自ら勉強するなど、厳しい環境におかれたことにより、 プロ意識が強くなったとポジティブにとらえているようです。 その後、 犬山ハーフマラソンで優勝したことをきっかけにハーフマラソンを中心に活躍します。 同年の世界ハーフマラソン選手権では銀メダルを獲得、2001年の全日本実業団ハーフマラソンで優勝し、「 ハーフマラソンの女王」と呼ばれるようになります。 プロ時代(高橋尚子との出会い) 出典: 2000年には札幌国際ハーフマラソンに出場し、そこで 高橋尚子選手と競うことになります。 中盤まで互角に競うものの、結果的には高橋尚子選手が優勝し、野口みずきさんは3位に甘んじました。 当時、高橋尚子選手は同年に開催されるシドニーオリンピック女子マラソン日本代表に選出されており、この大会後の陸上競技界における女性初の金メダリストとなります。 同じ大会で競った高橋尚子選手がオリンピックという大舞台で、さらには女性初の金メダリストに輝いたことから、 自身もオリンピックでの女子マラソン優勝を夢見るようになりました。 そして、見事自身も女子マラソン金メダリストとなった野口みずきさん。 2016年に行われた対談では、高橋尚子選手に以下の様に伝えています。 「 高橋さんに憧れることができたから金メダルも取れたし、日本記録も出せました。 ありがとうございました。 」 引用: ハーフマラソンの女王と言われていた野口みずきさんが、マラソンに転向し、金メダリストとなったのには、 高橋尚子選手の存在が大きかったと言えます。 プロ時代(シスメックス移籍) 出典: 2005年、所属するグローバリーが不祥事を起こし、陸上部が廃部となってしまいます。 その後シスメックスに移籍、引退までシスメックスに在籍します。 移籍後は、2006年「札幌国際ハーフマラソン」での優勝などをはじめ、多くのレースで活躍し、2007年には「東京国際女子マラソン」で大会新記録・大会初優勝を飾りました。 また、この優勝により 日本人選手で初めて東京・大阪・名古屋の国内三大女子マラソンを完全制覇という偉業を成し遂げました。 野口みずきの現役時代の記録まとめ~アテネ五輪では金メダリストに 「ハーフマラソンの女王」であり、「金メダリスト」でもある野口みずきさん。 そんな野口みずきさんの記録について、調べてみました。 オリンピック出場歴 出典: 野口みずきさんは、フルマラソンで 2008年にアテネオリンピックに初出場し、2時間26分20秒で優勝。 日本選手2人目の五輪女子マラソン金メダリストとなりました。 4年後に開催された北京オリンピックは故障により欠場しており、本人は2012年開催のロンドンオリンピックに意欲をみせていましたが、ロンドンオリンピックも出場は叶いませんでした。 北京オリンピックに出場できなかった理由である故障については、野口みずき本人は「 五輪を意識しすぎて過度な練習をしてしまい、左足に疲労が集中したため」と語っています。 欠場を表明した当時は酷いバッシングが起きたといい、非難のメール・手紙が殺到し、1ヵ月ほど北海道で身を潜めていたそうです。 さらに4年後の2016年開催のリオオリンピック出場にも意欲的でしたが、右大腿部疲労骨折の影響も大きかったのか結果は振るわず、オリンピック出場には至りませんでした。 大会での主な記録(フルマラソン) 出典: 野口みずきさんは、2002年に初マラソンに挑戦した 「名古屋国際マラソン」で優勝しています。 その後、2003年の 「大阪国際女子マラソン」優勝、 日本国内最高記録となりました。 同年の 「世界陸上選手権パリ大会」で2位を獲得したことで「アテネ五輪」に内定し、前述でもあるように翌年2004年のアテネ五輪で日本人選手で2人目の女子マラソン優勝を飾ります。 2005年には 「ベルリンマラソン」で優勝し、当時の大会記録を塗り替えた他、 アジア最高記録・日本最高記録となりました。 2年後の2007年 「東京国際女子マラソン」でも優勝し、大会記録を塗り替えますが、翌年の20008年に「北京オリンピック」をケガのため欠場します。 この頃から徐々に記録に陰りが見えはじめ、2012年・2013年の「名古屋ウィメンズマラソン」ではそれぞれ6位・3位の記録に終わっています。 さらに2013年には、「世界陸上競技選手権モスクワ大会」では熱中症によりリタイアしてしまいます。 そして、現役ラストランとなった2016年の 「名古屋ウィメンズマラソン」では23位に終わっています。 大会での主な記録(フルマラソン以外) 出典: 野口みずきさんは1999年に出場したハーフマラソン 「犬山ハーフマラソン」で優勝したのを皮切りに、数々のハーフマラソンの大会で優勝しています。 優勝したハーフマラソンの大会は以下のとおりです。 1999年「名古屋ハーフマラソン」• 2000年「士別ハーフマラソン」• 2000年「山陽女子ロードレース」• 2001年「全日本実業団ハーフマラソン」• 2001年「東アジアハーフマラソン」• 2002年「宮崎女子ロードレース」• 2003年「全日本実業団ハーフマラソン」• 2003年「神戸全日本女子ハーフマラソン」• 2006年「全日本実業団ハーフマラソン」• 2007年「宮崎女子ロードレース」• 2007年「仙台国際ハーフマラソン」• 2007年「札幌国際ハーフマラソン」• 2008年「仙台国際ハーフマラソン」• 2013年「仙台国際ハーフマラソン」 上記以外の大会でも10位以内、特に5位以内に多々入賞しています。 また、2006年の「香川丸亀ハーフマラソン」では2位入賞となりましたが、当時の自己最高記録、そして日本歴代2位を記録しています。 10位以下の入賞となったのは2015年の「リスボン・ハーフマラソン」のみで、この大会では15位に終わっています。 ハーフマラソン以外には、1000m、30kmに出場しています。 1000mの大会である、2001年「世界陸上競技選手権 エドモントン大会」では13位でしたが、2004年「兵庫リレーカーニバル大会」では4位入賞、自己最高記録と当時の日本歴代8位の記録を残しています。 30kmの大会には2004年に 「青梅マラソン」に出場、優勝しています。 また、日本最高記録も残しています。 野口みずきの引退理由とは 出典: 野口みずきさんは、2016年のリオオリンピック出場に意欲を見せていたものの、ケガの影響もあり、あまり良い成績を残せずにいました。 本人もそれを痛感していたようで、 2016年「名古屋ウィメンズマラソン」にラストチャンスをかけて臨みました。 しかし、5kmという序盤で先頭集団から離脱、その後もペースが上がらず 23位と自身の記録・順位ともにワーストに終わり、リオオリンピックへの出場も叶うことはありませんでした。 野口みずきさんは、インタビューでこのレースについて以下の様に語り、完全燃焼したと述べました。 「花道のように感じた。 けがで苦しんだけど、ずっと私の名前を覚えていて、応援してくれる人がこんなにもいた。 」 引用: 「今後のことは分からないが、悔いの残らないレースができた。 モスクワで棄権したことが心に残っていたので、ゴールできてよかった」 引用: そして 同年に現役引退を表明し、記者会見を行いました。 引退理由について、 自分が納得するまで走り切れたこと、そして2年ほど前から 心と体のバランスが悪くなり、思うようにトレーニングができなくなり引退が念頭にあったためと述べました。 引退後については、「陸上界に恩返しがしたいため、可能な範囲で陸上に携わっていきたい」とも語っています。 野口みずきの結婚した旦那とは 出典: 野口みずきさんは 引退からおよそ4ヵ月後の2016年7月4日に、地元である三重県伊勢市にある猿田彦神社で結婚式を挙げています。 当日の10時ごろに家族のみで執り行われ、その後に伊勢神宮内宮を参拝したとされています。 結婚後は、夫の転勤の都合により共に上海に渡っていましたが、現在は 大阪に在住しています。 結婚相手は40代の関テレ社員で報道カメラマンをしており、2003年に野口みずきさんを取材したことがきっかけだとされています。 報道担当のため、スポーツ担当ではありませんでしたが、野口みずほさんを題材にしたドキュメンタリーを撮影していたのだそうです。 その取材から月日が経過した2014年になって2人は急接近し、交際に発展、ゴールインしました。 野口みずきの子供とは 出典: 野口みずきさんには、 現在子供はいないようです。 現在40代であり、まだまだこれから授かる可能性もありますが、本人の状況や意向については分かっていません。 野口みずきの現在 出典: 野口みずきさんは現在、大阪に在住しています。 不定期ではありますが、 岩谷産業のアドバイザーとして指導を行っているそうです。 また、2019年「マラソングランドチャンピオンシップ」出場選手記者会見などのゲストや、三重で行われているマラソン大会「野口みずき杯」などに ゲストランナーとして参加しています。 プライベートでは、 「食育実践プランナー」を目指し、通信講座を受けているそうです。 食育実践プランナーでは、栄養の知識をはじめ、食材の選び方、献立の作り方、食事作法や配膳といった食文化などを学ぶものです。 野口みずきさんはマラソン選手引退後、夫の海外赴任で上海に渡り料理教室に通ったそう。 その際に料理への関心が高まったことをきっかけに、講演会などの機会に食や栄養の知識も加えたアドバイスがしたいと考えたため、資格取得を目指しているのだそうです。 まとめ 友人に誘われたことで陸上の世界に足を踏み入れた野口みずきさん。 そんな野口みずきさんは見事に才能を開花させ、「ハーフマラソンの女王」「金メダリスト」にまで上り詰めました。 しかし、ストイックな性格から自身の体を追い詰めてしまい、結果的に故障してしまったことでで再度のオリンピック出場は叶うことはありませんでした。 野口みずきさんは現在、陸上関係のゲストやアドバイザーとして活動しており、引退時に語っていた「陸上競技界への恩返し」に携わっています。

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野口みずきの生い立ち~貧乏過ぎる家庭環境に現在は旦那と上海?

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来歴 1年生時、友人に誘われたの機に陸上部へ所属。 中学卒業後の4月、に入学。 同高校時代にはでに出場、でも活躍した。 にワコールに入社したが翌、会社と対立した監督のが、ら少数の選手を連れて辞任すると、野口もこれに従った。 一時はの求職者給付を受けながら現役を続行した。 、監督らとともにグローバリーに入社。 この年の犬山ハーフマラソンに優勝したのをきっかけに、を中心に取り組むようになる。 1999年の()では、1時間9分12秒で当時女子マラソン世界記録保持者のに続く2位に入り銀メダルを獲得、ので優勝するなどその活躍はめざましく、「ハーフの女王」として知られた。 の仙台国際ハーフマラソンでの優勝まで、ハーフマラソンでは34戦21勝である。 7月の・女子の部では、同年9月開催の女子マラソン日本代表に選出されたと競り合った。 だが野口は終盤で遅れ、高橋が1時間9分10秒で優勝し、野口は1分26秒差の3位だった(野口と高橋が公式レースでの対決は、同ハーフマラソンが唯一である)。 のちに高橋はシドニー五輪女子マラソンで陸上競技界において、日本人女性初の五輪金メダルを獲得した事により、野口は「自分も高橋選手のようにの女子マラソンで優勝したい」と思うようになる。 、将来フルマラソンを走るためのスピード強化の一環として、の女子にエントリー。 自己記録を更新して3位に入り、同年8月に行われる大会の代表に選出。 その世界陸上女子10000mでは13位に終わったが、この成績から「世界一を狙うならマラソンしかない」との確信を持ち、翌のマラソン初挑戦へと繋がった。 2001年、()にグローバリー代表(地区)として出場。 野口は第4区(11. 2 km)を区間1位・34分50秒で走り、また同代表チームを総合初優勝に導いた。 同年12月の()への初出場も果たし、野口は第3区(10. 0 km)を区間3位・32分21秒で走ったが、同チームは総合5位に留まった。 なお、グローバリー代表として同女子駅伝大会の出場は、この2001年が最初で最後となった。 初マラソン・アテネ五輪金メダル 2002年、初のフルマラソンとなったでは、中盤の25km過ぎで2位の、3位のらを引き離して独走し、初優勝を飾る。 しかし気温が20度近くと高かったため、記録は2時間25分台に留まり、当時の持つ初マラソン世界最高記録(2時間23分11秒)には届かなかった。 翌1月にはへ2回目のフルマラソンに出走。 途中で給水を2回取り損ねる失敗が有りながらも快走し、前年優勝者のらを相手に快速ペースの展開で次々と有力選手を先頭集団から振り落とし、当時日本歴代2位の2時間21分18秒で優勝。 2位の、3位のとともに、上位3人が2時間21分台と国内最高記録をマークした。 同年のパリ大会では、中盤までにピッタリとマークされ、何度も手足がぶつかるアクシデントに見舞われた。 レース後半30km過ぎにがスパートすると、野口を含め日本女子選手達は全くついていけず、徐々に引き離された。 ゴール直前では野口が少しずつ追い上げたが、19秒差で届かずヌデレバが優勝。 しかし野口が日本女子トップの2位に入り銀メダルを獲得したため、翌のアテネ五輪の代表に内定した。 千葉は3位に入り銅メダル獲得、坂本は4位入賞。 奇しくも同年1月の大阪国際女子マラソンの上位3選手が、そのまま2・3・4位となった。 2004年(日本時間23日)、の女子マラソンは、気温30度を超える酷暑の中でのレースとなった。 25km付近で野口がロングスパートを仕掛けると、優勝候補の世界記録保持者やヌデレバらの強豪選手達が遅れ始めた。 28km過ぎではただ一人ついていたもついていけずに後退し、野口の独走となった。 後半の32km辺りからゴールまで約10km続く下り坂に入ると、一旦遅れたヌデレバが追い上げて2位に上がり、ゴールに向け野口との距離を詰めるが、12秒の差で野口が逃げ切って優勝。 シドニー五輪の高橋尚子に続き、日本に2大会連続のオリンピック女子マラソン金メダルをもたらした。 記録は2時間26分20秒(は5位、坂本直子も7位で、日本勢は3選手とも入賞を果たした)。 日本記録更新・2大会連続五輪出場 開催のでは、2時間19分12秒の大会新記録を出して優勝(獲得賞金7万・約945万円)。 そして、この記録はが持っていたアジア記録、が前2004年のベルリンマラソンで出していた日本記録をともに更新し、当時のラドクリフ、ヌデレバの記録に次ぐ世界第3位であった(2019年時点では世界歴代12位)。 この記録は「走った距離は裏切らない」という言葉を胸に、毎日約40kmのランニング練習をこなしている成果である。 所属するグローバリーの不祥事により陸上部が廃部されたため、2005年付でに移籍した。 移籍後初の大会となったの第60回では、自己の日本記録を上回るタイムを出しながらも、に敗れて2位。 同年の札幌国際ハーフマラソンでは、中盤までとデッドヒートを繰り広げたが、その後引き離して終盤は独走、大会新記録で優勝を果たしている。 の女子マラソン代表選考レースである、開催のにエントリー、2年2か月ぶりのフルマラソン出走となった。 野口と同期生で前日本記録保持者の渋井陽子や、有力選手のとの優勝争いが予想されたが、レース後半の30km手前で渋井を引き離し、35kmで粘るコスゲイもスパートで競り落とし、35kmから40kmまで続く5kmの急な上り坂を過去最速となる初の16分台のラップタイム(16分55秒)で通過するなど、圧倒的な強さでこの難コースを完璧に攻略。 東京国際女子マラソンとしても大会新記録・大会初優勝を飾った。 また、この優勝により、日本選手として史上初めて東京・大阪・名古屋の国内三大女子マラソンを完全制覇した(海外選手では先にが国内三大女子マラソンを制覇している)。 2008年の理事会において、北京五輪女子マラソンへ正式に代表入りを果たし、2大会連続の五輪出場を決めていた(他代表選手は土佐礼子、)。 2008年の(三重県代表・9区10km)以来の公式戦(原因不明のにより2レースを欠場)となった、同年の仙台国際ハーフマラソンは、昨年の大会の自己記録を29秒上回るタイムで2連覇を達成した。 しかし本レース以降は2年以上にわたり、公式レースから遠ざかることとなった。 北京五輪欠場 野口はアテネ五輪以降、ケガの闘いにも苦しむようになる。 2006年のベルリンマラソンへ出場を予定していたが、練習中左足首の故障のために断念。 その後、翌2007年4月のにも出場予定だったが、左足首(アキレス腱)の故障が再発し、又もマラソンを回避。 2004年アテネ五輪後から2008年北京五輪前のフルマラソン出走は2005年9月のベルリンと、2007年11月の東京国際女子の2レースのみであった。 北京五輪女子マラソン本番前の2008年、合宿先の・から緊急帰国。 診断の結果、左足太股のを起こしている事が判明。 数日間様子を見たが痛みが引かないため、同年本番の北京オリンピック女子マラソンへは、レース前のに出場辞退を表明。 オリンピックで史上初となる、女子マラソン種目での五輪2連覇の夢は潰える事となった(代表だったも故障により欠場)。 野口が欠場した北京五輪女子マラソン日本代表の他2選手の成績は、中村友梨香がひとり完走するも13位、土佐礼子は途中棄権に終わる惨敗だった。 五輪女子マラソンで日本代表がメダル・入賞ゼロは、以来20年ぶりであった。 2008年の世界ハーフマラソン選手権()も欠場。 その後、怪我の回復が遅れて練習を積めず、レース復帰の目処の立たない日々が続き、また4月には監督の藤田から「勧告」を受けていたという報道もなされていた。 、2年5か月ぶりの公式レース復帰となる、(・)にシスメックス代表(関西地区)として出走。 第3区(10. 5 km)を区間5位・34分15秒で走り、同代表チームは総合3位に入る。 さらに、同年12月の全日本実業団対抗女子駅伝競走大会への出場権も獲得した(シスメックス代表では初出場だが、野口自身は2001年にグローバリー代表で出走して以来9年ぶり)。 しかし、全日本実業団女子駅伝の本番レースでの野口は第3区(10. 0 km)を担当するも、39度のと左足首のによる体調不良が響いて区間20位・34分00秒も掛かってしまい、結局同チームは総合14位に終わった。 以降は再び故障の治療に専念していたが、10か月ぶりに開催の実業団女子駅伝西日本大会に出場。 第3区(10. 5 km)で区間1位・32分25秒と久々に快走、チーム総合2位の成績に貢献した。 同駅伝大会のレース後、女子マラソン代表選考会である、翌開催予定の大阪国際女子マラソンに出場する意向を明らかにした。 3年7か月ぶりのハーフマラソン出場となった、2011年のではスタート直後から先頭に立ったが、9Km地点を過ぎて優勝したらについていけず失速、結局5位に留まった。 その後・でを積んでいたが、日本帰国直前の2012年、再び左足に違和感を覚えて帰国後検査を受けた所、左太股裏の軽度の炎症と診断。 結果大阪国際女子マラソンへの欠場を表明、同年開催で国内最終選考会・への出場で、ロンドン五輪を目指す事となった。 4年4か月振りのフルマラソン出走となった2012年の名古屋ウィメンズマラソンでは、一時敢えての前に出る積極性を見せるも、17Km付近で「左膝が抜けるような感じ」ので先頭集団から脱落し、一時30秒近く離された。 しかしそこから驚異的に追い上げ、29Km過ぎで集団に追いつき先頭を引っ張るシーンも見せたが、34Kmでついに力尽き優勝争いから脱落。 奇跡の復活は起こらず6位に留まり、ロンドン五輪日本代表入りは絶望となったが 、「まだやれる」と実感した野口は感激の涙を流しながらのゴールインとなった。 世界陸上モスクワ大会 ロンドン五輪落選後も現役続行を宣言した野口だったが、2012年の仙台国際ハーフマラソンは体調不良のため欠場。 同年、で開催のハーフマラソン大会に出場、4位に終わるも「後半にアクシデントもあったが、まずまずの手応え」と納得のコメントだった。 今後は翌女子マラソン代表選出を目指す意向を表明した。 しかし、2013年の同世界陸上の選考レースだった大阪国際女子マラソンは、急性の回復が遅れ2年連続でスタートラインに立てなかった。 2013年、世界陸上の国内最終選考会である名古屋ウィメンズマラソンで1年ぶりにフルマラソンに出場。 前半から集団を引っ張るなどの積極的なレースをするものの、35. 5kmで・のロングスパートに対応できず徐々に離された(木崎が優勝し世界陸上即内定)が、最後まで粘り切り2時間24分05秒の好タイムで3位入賞。 同世界陸上の代表が自動的に決まる2時間23分台以内には届かなかったが有力候補の一人となり、ゴール後の会見では「全盛期と同じように強気な走りができた」と笑顔でコメント。 同年、世界陸上のモスクワ大会マラソン代表が発表。 女子マラソンは「最近の不振への引き締め」(陸連)と代表派遣が3人のみ絞られた(最大5枠)が、木崎良子・福士加代子と共に、自身10年ぶりの世界陸上選手権女子マラソン代表に選ばれた。 その後同年には、前年欠場した仙台国際ハーフマラソンに出場。 9km過ぎにを引き離し、2位に1分近くの差をつけて、ハーフマラソンで約5年ぶりとなる優勝を果たした。 レース後の野口は「優勝は出来ましたが、目標の1時間8分台・9分台のタイムが出せず悔しいです。 気持ちを切り替えて世界選手権に向けて頑張りたい。 完全復活にも少し近づけたと思います。 」と述べていた。 同年8月10日に開催された世界陸上モスクワ大会・女子マラソンに出場。 気温30度を超える過酷な気象条件の中、レース序盤は福士加代子らと先頭集団についていたが、10Km手前で集団から遅れ始める。 12Km過ぎでは木崎良子にも抜かれ、8・9位付近でレースを続けるも、30Km手前で太ももに痛みが走り、止まってしまう。 その後レースを再開し、走行と歩行を繰り返していたが、33Km付近で・日本陸連男子マラソン部長に走るのを制止され、無念の途中棄権に終わった(救急車で医務室へ運ばれ、軽いと診断される。 福士は3位入賞・銅メダル獲得、木崎は4位入賞)。 リオ五輪代表落選 2014年、女子マラソンの選考レースだった大阪国際女子マラソンは、右大腿部疲労骨折の診断により、同大会3年連続でエントリーしながらも結局は欠場。 その後も怪我の影響などで満足にトレーニング出来ない日々が続く中、「8月の出場を目指す」と公言するも、女子マラソンの国内選考会は、名古屋ウィメンズマラソン等を含め全て回避、リオ五輪へは翌度の国内選考会で勝負する事を表明した。 2016年、大阪国際女子マラソンと同時開催の・女子の部に出場するも、リオ五輪女子マラソン日本代表内定者で、女子優勝のに3分以上遅れの6位でゴール。 その後野口自ら「私がオリンピックを目指すのはリオが最後。 名古屋(ウィメンズマラソン)でダメならこれで引退かも知れない」と涙ながらにコメントした。 リオ五輪へのラストチャンスを賭けて、2016年の名古屋ウィメンズマラソンに出場したが、序盤の5Km過ぎで早々先頭集団から脱落。 その後もペースは上がる事無く優勝争いに加われないまま、結果2時間33分台の23位と記録・順位共ワーストに終わり、リオ五輪女子マラソン日本代表選出はならなかった。 それでもゴール後の野口は「30Km過ぎから走っている人から沿道まで私をずっと応援してくれて、花道のようだった。 愛されていたんだな、としみじみ感じていた」と涙ぐみながらも笑顔でインタビューに応えつつ 、「今後は分からないが、悔いの残らないレースができた。 モスクワで棄権した事が心に残っていたので、ゴール出来て良かった」と完全燃焼出来た事を強調していた。 現役引退後 2016年、現役引退する意思を明らかにしたことが報道され 、翌に所属チームの本拠地がある神戸市で引退記者会見を行った。 その席で野口は「ワコールに入社した時『足が壊れるまで走りたい』と言った。 本当に自分が納得する迄走り切れた。 すがすがしい気持ち」「2年前から心と体のバランスが悪くなった。 思うようにトレーニングが出来ず、その辺りから引退が頭の中にあった」と、安堵の笑みを浮かべながらコメント。 但し引退後の指導者転向は否定、また所属先のシスメックスを退社し「出来る範囲内で陸上に携われば。 陸上界に恩返しがしたい」と今後についてのビジョンを語っていた。 尚、野口が引退する迄指導し続けた総監督も、付でシスメックスを退社している。 同年、3日前のに野口の故郷・三重県伊勢市で、一般男性と結婚式を挙げた事を公表した。 その後、夫が・に仕事の都合で転勤になったことから、野口自身もの上海市に移住した。 、にある内に開業したランニングステーション「tonarino(トナリノ)」のに就任した。 、かつてワコール・グローバリー所属の先輩選手だった真木(のち山岡)和が、により49歳の若さで死去。 野口は翌10月19日、真木の自宅・へ弔問に訪れ、「昔の仲間と一緒に、最後のお別れをしました。 2017年の秋、岩谷産業の寮の内覧会でお会いした時は元気でしたが」とショックを隠せず、「真木先輩に憧れ、苦楽を共にして。 大事な試合でも合宿でコーチングして貰いました。 気持ちが強い先輩なので(病気の事は)表には出されていませんでした」と、追悼のコメントを述べていた。 2019年現在は大阪に在住し、のアドバイザーとして、広瀬監督のもと不定期で指導している。 、の聖火リレーにおいて日本人最初の聖火ランナーとしてのを走る。 主なレースデータ マラソン女子日本記録• 2時間19分12秒: 5 km 10 km 15 km 20 km ハーフ 25 km 30 km 35 km 40 km ゴール タイム 16:24 32:53 49:22 1:05:43 1:09:19 1:22:13 1:38:49 1:55:26 2:11:53 2:19:12 スプリット 16:24 16:29 16:29 16:21 16:30 16:36 16:37 16:27 7:19 フルマラソン 年月 大会 順位 記録 備考 2002年03月 優勝 2時間25分35秒 初マラソン 2003年01月 優勝 2時間21分18秒 大会記録、日本国内最高記録 2003年08月 2位 2時間24分14秒 アテネ五輪内定 2004年08月 優勝 2時間26分20秒 日本選手二人目の五輪女子マラソン優勝 2005年09月 優勝 2時間19分12秒 世界歴代3位 当時 、大会記録 当時 、アジア最高記録、日本最高記録 2007年11月 優勝 2時間21分37秒 大会記録 2008年08月 記録なし 故障により欠場 2012年03月 6位 2時間25分33秒 2013年03月 名古屋ウィメンズマラソン 3位 2時間24分05秒 2013年08月 記録なし 軽い熱中症により33Km付近でリタイア 2016年03月 名古屋ウィメンズマラソン 23位 2時間33分54秒 現役ラストラン フルマラソン以外 年月 大会 順位 記録 備考 02月 優勝 1時間10分16秒 1999年03月 2位 1時間11分56秒 ハーフマラソン 1999年07月 2位 1時間10分01秒 ハーフマラソン 1999年08月 3位 1時間15分19秒 ハーフマラソン 1999年10月 2位 1時間09分12秒 ハーフマラソン、・(開催地) 1999年11月 優勝 1時間08分30秒 ハーフマラソン 07月 札幌国際ハーフマラソン 3位 1時間10分36秒 ハーフマラソン 2000年08月 士別ハーフマラソン 優勝 1時間13分26秒 ハーフマラソン 2000年11月 世界ハーフマラソン選手権 4位 1時間11分11秒 ハーフマラソン、・(開催地) 2000年12月 優勝 1時間09分44秒 ハーフマラソン 03月 優勝 1時間08分45秒 ハーフマラソン 2001年05月 優勝 1時間11分18秒 ハーフマラソン 2001年06月 3位 31分51秒13 2001年07月 札幌国際ハーフマラソン 2位 1時間09分51秒 ハーフマラソン 2001年08月 大会 13位 32分19秒94 10000m 2001年10月 世界ハーフマラソン選手権 4位 1時間08分23秒 ハーフマラソン、 (開催地) 2001年11月 名古屋ハーフマラソン 優勝 1時間08分28秒 ハーフマラソン、大会記録 01月 優勝 1時間08分22秒 ハーフマラソン 2002年05月 世界ハーフマラソン選手権 9位 1時間09分43秒 ハーフマラソン、 (開催地) 2002年08月 優勝 1時間09分49秒 ハーフマラソン、大会記録 2002年09月 2位 1時間10分06秒 ハーフマラソン、イギリス (開催地) 2003年03月 全日本実業団ハーフマラソン 優勝 1時間08分29秒 ハーフマラソン 2003年11月 優勝 1時間09分52秒 ハーフマラソン 2003年12月 山陽女子ロードレース 優勝 1時間10分04秒 ハーフマラソン 01月 宮崎女子ロードレース 優勝 1時間07分47秒 ハーフマラソン、大会記録 2004年02月 優勝 1時間39分09秒 30 km、日本最高記録 2004年04月 大会 4位 31分21秒03 10000m、自己最高記録・日本歴代8位(当時) 02月 1時間13分07秒 ハーフマラソン、ゲストランの為、順位なし 2005年07月 札幌国際ハーフマラソン 3位 1時間09分46秒 ハーフマラソン 02月 香川丸亀ハーフマラソン 2位 1時間07分43秒 ハーフマラソン、自己最高記録・日本歴代2位 2006年03月 全日本実業団ハーフマラソン 優勝 1時間08分49秒 ハーフマラソン 2006年07月 札幌国際ハーフマラソン 優勝 1時間08分14秒 ハーフマラソン、大会記録 2006年11月 優勝 1時間09分03秒 ハーフマラソン、大会記録 01月 宮崎女子ロードレース 優勝 1時間08分30秒 ハーフマラソン 2007年05月 優勝 1時間08分54秒 ハーフマラソン 2007年07月 札幌国際ハーフマラソン 優勝 1時間08分22秒 ハーフマラソン 05月 仙台国際ハーフマラソン 優勝 1時間08分25秒 ハーフマラソン 12月 山陽女子ロードレース 5位 1時間10分48秒 ハーフマラソン 09月 ロックンロール・・ハーフマラソン 4位 1時間12分20秒 ハーフマラソン、ポルトガル (開催地) 05月 仙台国際ハーフマラソン 優勝 1時間10分36秒 ハーフマラソン 3月 リスボン・ハーフマラソン 15位 1時間19分07秒 ハーフマラソン 1月 6位 1時間13分28秒 ハーフマラソン エピソード・その他• (女子10000m)と(女子マラソン)の日本代表選手だった、(現姓:山岡)が所属するワコールに入社。 現在の真木は現役引退後、結婚して一児の母となったが、時折野口の出走するレースの応援に駆けつける事があった。 アテネオリンピックの優勝決定の後、野口は右足のマラソンシューズを脱ぎ、右にをしていた。 それは野口のシューズを製作した、当時所属のに対するお礼と感謝の意味だった、と野口自ら説明している。 それでもその靴にキスをしたシーンは、「靴の中の匂いを嗅いでいたのか? 」とされる事も多かったという。 しかしその直後野口は、気温35度前後の猛暑と五輪史上最難関コースの呼び声の高い、アテネ五輪の女子マラソンを戦ったダメージからか、軽いと症状により、医務室へ運ばれた(ほか銀メダルのヌデレバをはじめ、医務室へ運ばれた選手が多く出た)。 それから数分後回復してからの五輪優勝では、前回シドニー五輪金メダリストの高橋尚子は「凄く楽しい42キロでした」と笑顔で締め括ったが、野口は対照的に時折声を詰まらせながら「もう…幸せです…有り難う御座います…」と、嬉し涙を流しながらコメントしていた。 名前の由来は落葉高木の「」から。 2004年年末恒例ののでは特別審査員として出演(が『』を歌う際、紅組司会のアナウンサーは曲紹介で、野口の名前の由来である事については一言も述べなかったが、間奏部分では画面に野口のアップが映された)。 に長野市で行われた、日本におけるリレーの最終走者をつとめた。 北京オリンピック後の2008年、でトークショーに出席した(公の場に登場したのは北京五輪前のにスイス合宿への出発以来3か月ぶり)。 トークショーの司会者は北京五輪の話題を避けようとしたが、その後野口自らあえて五輪欠場の話題を口にする。 その席で野口は「北京五輪を故障で欠場してしまい、申し訳無い気持ちで一杯です。 藤田監督と広瀬(永和)コーチが批判されていたが、それでも私を守ってくれました。 故障の原因はやっぱり自分だったので…」と語ると、思わず涙で言葉を詰まらせた。 それでも最後は笑顔で「次の大きな目標は2012年のロンドンオリンピックですが、今は早く故障を治して、次のレースで元気な姿を見せられるように頑張ります」と気丈に語っていた。 2016年3月の名古屋ウィメンズマラソンで23位で完走した野口は、ゴール後に同大会のゲスト解説者だった高橋尚子と対面。 高橋が涙しながら野口を「よく最後まで頑張ったね」と称えつつ抱擁した際に、野口からは「今まで言えなかったんですけど、私ずっと高橋さんが憧れでした。 金メダルを獲れたのも日本記録を出せたのも、ずっと追いつけない存在があったから。 今の私があるのは高橋さんのおかげです」等と高橋に対し全ての思いを明かし、二人で号泣したという。 それから1か月後の同年4月、野口が現役引退表明した後の高橋は「お疲れ様でした。 常に全力で走り続ける姿は、多くの人達に刺激や感動を与えてくれました。 長い間マラソン界を率いてくれて有難う。 マラソン界に刻まれた功績は輝き続けるでしょうし、みずきちゃんの今後の人生も金メダル同様輝く事を願っています」と労いの言葉を贈っていた。 大の好きとして知られる(のマグロ業者より1年分のマグロをプレゼントされた)。 座右の銘 「 走った距離は裏切らない」• - (アテネ五輪特集・陸上)• - スポニチ• - デイリースポーツ• - 河北新報• - スポニチ• - 毎日新聞2013年3月10日• スポーツナビ 世界陸上:女子マラソン 2013年8月11日閲覧• 産経WEST 大阪国際女子マラソン 2014年1月16日閲覧• スポニチ デイリーフォト一覧(スポーツ) 2015年2月7日閲覧• スポニチ 2016年2月1日閲覧• スポーツナビ 2016年3月13日記事• 日刊スポーツ 2016年3月14日記事• スポニチ 2016年3月13日閲覧• スポニチ 2016年3月14日閲覧• Sponichi ANNEX. 2016年4月14日. 2016年4月14日閲覧。 スポニチ 2016年4月16日記事• スポニチ 2016年6月1日記事• シスメックス女子陸上競技部 2016年7月7日記事• スポーツ報知. 2016年11月19日. 2016年11月19日閲覧。 日刊スポーツ 2017年4月27日. 2017年4月27日閲覧。 日刊スポーツ 2018年10月25日記事• - Sportnavi• - スポニチ• - デイリースポーツ• - デイリースポーツ• - 上田市ホームページ• - 関連項目• 外部リンク• - 野口みずき所属• - のプロフィール (英語)• - の選手名鑑•

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